2011年 12月 30日
■下手の考え
ことしも多事多難の年であった。国内外に相次ぐ自然災害と政治経済の混迷を振り返ったらきりがないほどだ。そんな激動とは無縁に前年と同じ日数と距離だけ歩いた私は、またも無為にすごしてしまったという思いでいる。すなはち昨年の総括と何ら変わることがないのだが……。
3月11日、東日本大震災。これが、すべてを変えてしまった。東北地方はもとより日本中を衝撃とダメージが覆い、被災地から遠い土手の住人たる私も例外ではない。あの恐怖・緊張・不安の日々、もう平穏な日常は戻ってこないのではと思った。久しぶりに土手に出て緑と菜の花を目にして甦った気はした。だが歩くにつれて歩道の亀裂に息を呑み、屋根にブルーシートと重石をのせた家々の光景にショックを受けた。(年末を迎えた現在、それら7軒のうち3軒は未補修である)
柄にもなく(いま何をすべきか)と考えた。しかし動悸とめまい、睡眠障害が続き元気だけが取り柄の身が医者にかかる始末。たとえ自慢の健脚で被災地までたどりついても、心身不安定な70歳では自分のめんどうもみられず、ボランティアどころかお荷物になる。無力感のなかで(オレに何ができるか)と思案したが、かろうじて「自転車修理」を思いついただけだった。
以来おびただしい義捐金が寄せられ、さまざまな人々が特技や職能を生かし、また炊き出しや瓦礫片づけで支援した。なかに「自転車修理」もあったから(あのとき行動していたら)と思う。それにしても、肝心の政治や宗教に目だった活動と成果が見えないと感じるのは政治・宗教嫌いのひが目か。政治の非力・無能はおいても、これほどの事態を「試練」ととらえたり「祈るのが仕事」という宗教とは何か。無辜の人々の災厄を考えれば「神も仏もないものか」と思う。
あの震災さえなかったなら──と、誰もがくり返し思うことだろう。私は子どものころに遊んだ双六を思い起こす。がっかりしたあの「一回休み」や「元に戻る」。できることなら暦を遡って震災前に戻りたい。そのためならばこの一年のすべてををナシにしてもいい。などと無為にすごした私がいえばしらけるが、きっと将棋の森内名人もなでしこジャパンの彼女たちもつかんだ栄光を喜んで擲つことだろう。
「元に戻る」のがムリならば、あの災厄にも何かしらプラス面がないものか。大きな犠牲と引き替えに得るものはないのか──ある日、歩きながらそんなことを考えた。
しいていうならば「辛い教訓」か。国家から個人まであらゆるレベルにおいて、あるべき形から危機管理までを問い直し、取り組み直す契機となった。たとえば──
・自然を畏怖する謙虚な気持を持つようになった
・本当に大切なものは何かを気づかせた
・モノよりココロ(人間)という意識変革が起こった
・「いざ」という時の覚悟と備えをするきっかけとなった
・ふだんの生活、平凡な日常のありがたさがわかった
・家族愛や他者への尊敬心が深まった
・他人を思いやる心、助け合う気持が共通・連帯のものになった
・各自が生活を律して倹素で上等な生き方を意識するようになった
注=本項の見出し「下手の考え」は「土手の考え」の誤りでした。たいして違わないけれど、いちおう訂正を……。

●土手の風景
見通しのよい日なら、いつも歩く流域から東京スカイツリーと富士山を一緒に遠望できる。荻窪に住む姉のマンションからは正面にスカイツリー、富士山は裏口から見える。すなはち土手から東京の位置が推定できるということで、私に数学の素養があればさらにくわしい測定ができるのになどと乏しい知恵をしぼる。
1月には「海から30.5㎞」地点でオオタカを目撃した。野立て看板にとまり、じっと今上落としの水面を凝視していた。こちらとの距離は10メートル余りだが、飛び立つようすもない。で、カメラを持たないのを悔やみながらにらめっこすること約5分。近づいたジョギングの足音で「おおたかの森」方面へ飛び去ったが、思いがけない幸運だった。
春以来「クリーンセンター」の脇に奇妙な白テントが目だつようになった。やがてそれが放射性物質を含む焼却灰の仮保管所だと知る。この処理問題は各地で共通の難題ということで、現在もなお並ぶテントは不気味な光景だ。
土手の除草サイクルが遅くなったこと、刈り取られた直径2メートル近い刈草ロールが土手の下にいつまでもごろごろしているのも処理難と関係がある。いつもの年なら、飼料や肥料用に有用なものが、今年は「危険ゴミ」なのだ。
キツネのファミリーに出会ったのは5月だった。「34.5㎞」付近、運河との交点にできた扇状地の草むらで三匹がたわむれていた。そこはノイバラやガマ、ススキが繁茂して人が近寄らない。春先には雛鳥たちの楽天地となる領域なのだが、キツネは初めてだ。このような場所にどうして棲息できるのか、いったいどこから、どうやってここに棲みつくようになったのかふしぎだ。
渇水期になると、この扇状地に続く岸沿いに新たな砂州が広がる。またその少し下流の対岸沿いにも大きな中洲が出現した。こちらは先年川底を掘り下げた場所だから、水流による堆積物の多さが察せられる。
11月の早朝、上空に300羽を超えるほどの渡り鳥の編隊を見かけた。それからしばらく歩いたところ、前述の砂州に休憩中の彼らがいた。広い砂州の一角を埋めつくす黒々した群。元気の余ったやつは水しぶきをあげて飛び回り、大半はおしゃべりざんまい。いや、そのにぎやかなこと。こんなに活気溢れる光景を見ることは、「この道20年」でもめったにない。

カテゴリ「9 社会の時間2」に「土手の上のヘンな人々」と「挨拶」を紹介しているが、お終いに今年出会った「ヘンな人々」を加えておきたい。
・脱帽おじさん──すれ違うとき、立ち止まらんばかりにして帽子をとって挨拶してくれる。ふつう土手の作法ではそこまで丁寧にはやらない。私など帽子のままちょっと頭を下げるだけだ。これは得(身につけ)がたい美徳と思うけれど、先生に出会った中学生みたいにやられると恐縮してしまうのだ。
・ふらふらジョギングおじ(い)さん──首にタオル、腰には飲料水をくくりつけた貧相タイプ。速歩と変わらないくらいゆっくり走りながら、キジに応えて声色をまね、カラスが鳴けば手を振って応える。立ち止まって供養碑に合掌、川岸に下りる階段があると降りたり昇ったりのトレーニングをする。この境地、なかなかなれるものでない(いい時間をすごしているなあ……)とうらやましい。

■師走の椿事
「32㎞」地点でのこと──地元のおやじさんとスポーツ自転車にまたがった若者が口論していた。で、人けのない場所で事件にでもなっては、と仲裁にはいる。
おやじの言い分=後ろから追い抜きざま「あぶねえぞ、ばかやろ!」とはなんだ。
若者の言い分=暗いのに危険よけの明かりをつけないで中央を歩いていた。ベルを鳴らしたが除けないので、つい……と暴言については反省。
わが大岡裁き=非は自転車側にある。歩行者は目だちやすいランプをつけるか、黒っぽい服装をさけるほうがいいが義務はなく、中央を歩くのも勝手だ。だがそれだけに、背後に迫る自転車のライトに気づいて片側に除けるべきだった。ベルを鳴らしたかどうかよりも、歩行者を優先すべきは明白。つまるところ暴言が問題だ。それを詫びるなら、互いにこれからも歩く道なのだから手を打ちませう。
この日は母の104歳の誕生日だった。「多事多難の年」の締めくくりにはお粗末ながら、私としては久しぶりに「社会との接点」を感じたできごとだった。
ことしも多事多難の年であった。国内外に相次ぐ自然災害と政治経済の混迷を振り返ったらきりがないほどだ。そんな激動とは無縁に前年と同じ日数と距離だけ歩いた私は、またも無為にすごしてしまったという思いでいる。すなはち昨年の総括と何ら変わることがないのだが……。
3月11日、東日本大震災。これが、すべてを変えてしまった。東北地方はもとより日本中を衝撃とダメージが覆い、被災地から遠い土手の住人たる私も例外ではない。あの恐怖・緊張・不安の日々、もう平穏な日常は戻ってこないのではと思った。久しぶりに土手に出て緑と菜の花を目にして甦った気はした。だが歩くにつれて歩道の亀裂に息を呑み、屋根にブルーシートと重石をのせた家々の光景にショックを受けた。(年末を迎えた現在、それら7軒のうち3軒は未補修である)
柄にもなく(いま何をすべきか)と考えた。しかし動悸とめまい、睡眠障害が続き元気だけが取り柄の身が医者にかかる始末。たとえ自慢の健脚で被災地までたどりついても、心身不安定な70歳では自分のめんどうもみられず、ボランティアどころかお荷物になる。無力感のなかで(オレに何ができるか)と思案したが、かろうじて「自転車修理」を思いついただけだった。
以来おびただしい義捐金が寄せられ、さまざまな人々が特技や職能を生かし、また炊き出しや瓦礫片づけで支援した。なかに「自転車修理」もあったから(あのとき行動していたら)と思う。それにしても、肝心の政治や宗教に目だった活動と成果が見えないと感じるのは政治・宗教嫌いのひが目か。政治の非力・無能はおいても、これほどの事態を「試練」ととらえたり「祈るのが仕事」という宗教とは何か。無辜の人々の災厄を考えれば「神も仏もないものか」と思う。
あの震災さえなかったなら──と、誰もがくり返し思うことだろう。私は子どものころに遊んだ双六を思い起こす。がっかりしたあの「一回休み」や「元に戻る」。できることなら暦を遡って震災前に戻りたい。そのためならばこの一年のすべてををナシにしてもいい。などと無為にすごした私がいえばしらけるが、きっと将棋の森内名人もなでしこジャパンの彼女たちもつかんだ栄光を喜んで擲つことだろう。
「元に戻る」のがムリならば、あの災厄にも何かしらプラス面がないものか。大きな犠牲と引き替えに得るものはないのか──ある日、歩きながらそんなことを考えた。
しいていうならば「辛い教訓」か。国家から個人まであらゆるレベルにおいて、あるべき形から危機管理までを問い直し、取り組み直す契機となった。たとえば──
・自然を畏怖する謙虚な気持を持つようになった
・本当に大切なものは何かを気づかせた
・モノよりココロ(人間)という意識変革が起こった
・「いざ」という時の覚悟と備えをするきっかけとなった
・ふだんの生活、平凡な日常のありがたさがわかった
・家族愛や他者への尊敬心が深まった
・他人を思いやる心、助け合う気持が共通・連帯のものになった
・各自が生活を律して倹素で上等な生き方を意識するようになった
注=本項の見出し「下手の考え」は「土手の考え」の誤りでした。たいして違わないけれど、いちおう訂正を……。

●土手の風景
見通しのよい日なら、いつも歩く流域から東京スカイツリーと富士山を一緒に遠望できる。荻窪に住む姉のマンションからは正面にスカイツリー、富士山は裏口から見える。すなはち土手から東京の位置が推定できるということで、私に数学の素養があればさらにくわしい測定ができるのになどと乏しい知恵をしぼる。
1月には「海から30.5㎞」地点でオオタカを目撃した。野立て看板にとまり、じっと今上落としの水面を凝視していた。こちらとの距離は10メートル余りだが、飛び立つようすもない。で、カメラを持たないのを悔やみながらにらめっこすること約5分。近づいたジョギングの足音で「おおたかの森」方面へ飛び去ったが、思いがけない幸運だった。
春以来「クリーンセンター」の脇に奇妙な白テントが目だつようになった。やがてそれが放射性物質を含む焼却灰の仮保管所だと知る。この処理問題は各地で共通の難題ということで、現在もなお並ぶテントは不気味な光景だ。
土手の除草サイクルが遅くなったこと、刈り取られた直径2メートル近い刈草ロールが土手の下にいつまでもごろごろしているのも処理難と関係がある。いつもの年なら、飼料や肥料用に有用なものが、今年は「危険ゴミ」なのだ。
キツネのファミリーに出会ったのは5月だった。「34.5㎞」付近、運河との交点にできた扇状地の草むらで三匹がたわむれていた。そこはノイバラやガマ、ススキが繁茂して人が近寄らない。春先には雛鳥たちの楽天地となる領域なのだが、キツネは初めてだ。このような場所にどうして棲息できるのか、いったいどこから、どうやってここに棲みつくようになったのかふしぎだ。
渇水期になると、この扇状地に続く岸沿いに新たな砂州が広がる。またその少し下流の対岸沿いにも大きな中洲が出現した。こちらは先年川底を掘り下げた場所だから、水流による堆積物の多さが察せられる。
11月の早朝、上空に300羽を超えるほどの渡り鳥の編隊を見かけた。それからしばらく歩いたところ、前述の砂州に休憩中の彼らがいた。広い砂州の一角を埋めつくす黒々した群。元気の余ったやつは水しぶきをあげて飛び回り、大半はおしゃべりざんまい。いや、そのにぎやかなこと。こんなに活気溢れる光景を見ることは、「この道20年」でもめったにない。

カテゴリ「9 社会の時間2」に「土手の上のヘンな人々」と「挨拶」を紹介しているが、お終いに今年出会った「ヘンな人々」を加えておきたい。
・脱帽おじさん──すれ違うとき、立ち止まらんばかりにして帽子をとって挨拶してくれる。ふつう土手の作法ではそこまで丁寧にはやらない。私など帽子のままちょっと頭を下げるだけだ。これは得(身につけ)がたい美徳と思うけれど、先生に出会った中学生みたいにやられると恐縮してしまうのだ。
・ふらふらジョギングおじ(い)さん──首にタオル、腰には飲料水をくくりつけた貧相タイプ。速歩と変わらないくらいゆっくり走りながら、キジに応えて声色をまね、カラスが鳴けば手を振って応える。立ち止まって供養碑に合掌、川岸に下りる階段があると降りたり昇ったりのトレーニングをする。この境地、なかなかなれるものでない(いい時間をすごしているなあ……)とうらやましい。

■師走の椿事
「32㎞」地点でのこと──地元のおやじさんとスポーツ自転車にまたがった若者が口論していた。で、人けのない場所で事件にでもなっては、と仲裁にはいる。
おやじの言い分=後ろから追い抜きざま「あぶねえぞ、ばかやろ!」とはなんだ。
若者の言い分=暗いのに危険よけの明かりをつけないで中央を歩いていた。ベルを鳴らしたが除けないので、つい……と暴言については反省。
わが大岡裁き=非は自転車側にある。歩行者は目だちやすいランプをつけるか、黒っぽい服装をさけるほうがいいが義務はなく、中央を歩くのも勝手だ。だがそれだけに、背後に迫る自転車のライトに気づいて片側に除けるべきだった。ベルを鳴らしたかどうかよりも、歩行者を優先すべきは明白。つまるところ暴言が問題だ。それを詫びるなら、互いにこれからも歩く道なのだから手を打ちませう。
この日は母の104歳の誕生日だった。「多事多難の年」の締めくくりにはお粗末ながら、私としては久しぶりに「社会との接点」を感じたできごとだった。
.jpg)





