2006年 07月 03日
■記憶の底にある歌 |
これは、でんでんむしさんのたとえば音楽の記録…に対するトラックバックです。歌=音楽の持つふしぎな力に思うところが多いので、便乗して「人生と歌」について考えてみたわけです。
音楽は文字通り、なんであれ楽しいものだ。人は楽しいにつけ哀しいにつけ、歌をうたい、聴き、いやされ、元気づけられる。それはきわめて人間的な(といっても、他の動物のことは知らないが)至福の時間だが、あるいは本能に近い原始的な行為のようにも思われる。海山で遭難した人々やかつての疎開児童や兵士たちは「知っているかぎりの歌をうたうことで飢え・恐怖・寒さをしのいだ」と異口同音に語っている。
SONYやAPPLE の発展と合わせるように、この半世紀に見るオーディオの成長はめざましい。そして豊かな社会では「音楽のない生活なんて考えられない」という若者があふれる一方、ハーモニカか演歌くらいしか音楽を持たない旧世代に少なからぬ疎外感を生んでいる。けれども音楽に高級・低級はなく、豊かなら豊かなほど貧しければ貧しいほどにEnjoyできるのが歌なのだ。
歌は、感情に訴え心にしみこみ、過ぎ去ったできごとを鮮やかに蘇らせる力を持っている。だから童謡や唱歌を聴けばたちまち幼時にもどり、古い流行歌は人生メモリーのモノサシとなる(童謡歌手がすたれず、不流行歌手もただ一つのヒット曲でいつまでもお座敷がかかるという現象もこのゆえかな)。クラシックやジャズなどに入れ込んだ人なら、その遍歴の中に培われた自画像が見えるだろう。本棚を見れば、また何を食べてきたかで、その人がわかるという。その意味で「音楽の記録を」というでんでんむしさんの提唱は、個人史をまとめる場合の大切な作業となるだろう。
ただし、以上のことは好みや環境にもよるから、結果は千差万別で人間の数だけあることになる。そこで“個人な好み”を超えて「より根元にある歌」について思い起こすいくつかを並べてみると。
・エーデルワイス(サウンドオブミュージック)
・異国の丘(吉田正)、故郷(岡野貞一)、赤とんぼ(山田耕筰)
・ヨハン・シュトラウス、シベリウス、ニューオーリンズの被災者におけるジャズ
・ラ・フランセーズ(カサブランカ)、モルダウ
これらに共通するのは、逆境の人々の心を奮い立たせた音楽であること。望郷の念や祖国愛をゆさぶり、アイデンティティに作用する歌であること。個人というよりも一人の人間として、人生を通して心の奥底に持っているものを呼び起こす歌であること。もちろん、メロディ・リズムだけでなく歌詞も大きな役割を果たしていることはいうまでもない。
だが、あえていえば、音楽の力によって素朴な感情や帰属心・ロイヤルティを刺激するこれらはあまり上等な歌とはいえないと思う。
ちょっと脱線するが、むしろ私は“音楽療法”について目を向けたい。心身の活動が失われてしまったような老人や病人が、歌によって記憶や感情を取り戻し、調子はずれでも歌っていれば生き生きとハッピーになる……といいたいことはたくさんあるのだが、これはまた別の話。
「もう、これからは自分の歌を唄うんだ」とは、『ルーツ』のクンタ・キンテのせりふ。そして、失意の底で口ずさんだのは長く封じ込めてきたアフリカの歌だった。そのような根元に迫る“自分の歌”を、はたして私たちは持っているだろうか。
白鳥は死のまぎわにうたう歌がもっとも美しいという。自分が、最後のときに歌いたい歌、聴きたい歌はなんだろう(じつは考えてみたこともない)。
で、思う。もしかしたら、それは歌にはかぎらないのではないか、と。小説、映画、初恋、郷里の自然。あるいは幼時の想い出、子ども達の笑顔、妻のとりとめない世間話……大切な記憶ならなんでも、その人の“白鳥の歌”になるのではないかと。
私は世代の代表たるにふさわしく、楽器はなにもできず音符も読めない。歌謡曲やジャズが嫌いなうえ、エルビスやビートルズのころにはすでに“熱中できる心”を失っていたから音楽的な体験は豊かとはいえない。それでも音楽好きであり、頭の中のハードディスクにはおびただしい量のメロディーを蓄積している。
土手を歩いていると、それらが口笛になって出てくる。私にとって口笛は唯一の楽器であり、ご機嫌のときも落ち込んだときも一緒にいてくれる一番の友だちでもある。解放された気分の口元から思わずメロディーが出て、記憶の底に沈んでいたものが不意に蘇ってくる。遠い気持にとらわれるのはそんな時なのだ。
でんでんむしさんのテーマをねじ曲げつつ、ようやくわが土手まで引っ張ってきた。自己の来し方を見つめ直す個人史の作業で、音楽にはもっと根の深いものがあるような気がしたので……妄言多謝。
音楽は文字通り、なんであれ楽しいものだ。人は楽しいにつけ哀しいにつけ、歌をうたい、聴き、いやされ、元気づけられる。それはきわめて人間的な(といっても、他の動物のことは知らないが)至福の時間だが、あるいは本能に近い原始的な行為のようにも思われる。海山で遭難した人々やかつての疎開児童や兵士たちは「知っているかぎりの歌をうたうことで飢え・恐怖・寒さをしのいだ」と異口同音に語っている。
SONYやAPPLE の発展と合わせるように、この半世紀に見るオーディオの成長はめざましい。そして豊かな社会では「音楽のない生活なんて考えられない」という若者があふれる一方、ハーモニカか演歌くらいしか音楽を持たない旧世代に少なからぬ疎外感を生んでいる。けれども音楽に高級・低級はなく、豊かなら豊かなほど貧しければ貧しいほどにEnjoyできるのが歌なのだ。
歌は、感情に訴え心にしみこみ、過ぎ去ったできごとを鮮やかに蘇らせる力を持っている。だから童謡や唱歌を聴けばたちまち幼時にもどり、古い流行歌は人生メモリーのモノサシとなる(童謡歌手がすたれず、不流行歌手もただ一つのヒット曲でいつまでもお座敷がかかるという現象もこのゆえかな)。クラシックやジャズなどに入れ込んだ人なら、その遍歴の中に培われた自画像が見えるだろう。本棚を見れば、また何を食べてきたかで、その人がわかるという。その意味で「音楽の記録を」というでんでんむしさんの提唱は、個人史をまとめる場合の大切な作業となるだろう。
ただし、以上のことは好みや環境にもよるから、結果は千差万別で人間の数だけあることになる。そこで“個人な好み”を超えて「より根元にある歌」について思い起こすいくつかを並べてみると。
・エーデルワイス(サウンドオブミュージック)
・異国の丘(吉田正)、故郷(岡野貞一)、赤とんぼ(山田耕筰)
・ヨハン・シュトラウス、シベリウス、ニューオーリンズの被災者におけるジャズ
・ラ・フランセーズ(カサブランカ)、モルダウ
これらに共通するのは、逆境の人々の心を奮い立たせた音楽であること。望郷の念や祖国愛をゆさぶり、アイデンティティに作用する歌であること。個人というよりも一人の人間として、人生を通して心の奥底に持っているものを呼び起こす歌であること。もちろん、メロディ・リズムだけでなく歌詞も大きな役割を果たしていることはいうまでもない。
だが、あえていえば、音楽の力によって素朴な感情や帰属心・ロイヤルティを刺激するこれらはあまり上等な歌とはいえないと思う。
ちょっと脱線するが、むしろ私は“音楽療法”について目を向けたい。心身の活動が失われてしまったような老人や病人が、歌によって記憶や感情を取り戻し、調子はずれでも歌っていれば生き生きとハッピーになる……といいたいことはたくさんあるのだが、これはまた別の話。
「もう、これからは自分の歌を唄うんだ」とは、『ルーツ』のクンタ・キンテのせりふ。そして、失意の底で口ずさんだのは長く封じ込めてきたアフリカの歌だった。そのような根元に迫る“自分の歌”を、はたして私たちは持っているだろうか。
白鳥は死のまぎわにうたう歌がもっとも美しいという。自分が、最後のときに歌いたい歌、聴きたい歌はなんだろう(じつは考えてみたこともない)。
で、思う。もしかしたら、それは歌にはかぎらないのではないか、と。小説、映画、初恋、郷里の自然。あるいは幼時の想い出、子ども達の笑顔、妻のとりとめない世間話……大切な記憶ならなんでも、その人の“白鳥の歌”になるのではないかと。
私は世代の代表たるにふさわしく、楽器はなにもできず音符も読めない。歌謡曲やジャズが嫌いなうえ、エルビスやビートルズのころにはすでに“熱中できる心”を失っていたから音楽的な体験は豊かとはいえない。それでも音楽好きであり、頭の中のハードディスクにはおびただしい量のメロディーを蓄積している。
土手を歩いていると、それらが口笛になって出てくる。私にとって口笛は唯一の楽器であり、ご機嫌のときも落ち込んだときも一緒にいてくれる一番の友だちでもある。解放された気分の口元から思わずメロディーが出て、記憶の底に沈んでいたものが不意に蘇ってくる。遠い気持にとらわれるのはそんな時なのだ。
でんでんむしさんのテーマをねじ曲げつつ、ようやくわが土手まで引っ張ってきた。自己の来し方を見つめ直す個人史の作業で、音楽にはもっと根の深いものがあるような気がしたので……妄言多謝。
by knaito57
| 2006-07-03 14:10
| ■ときどき日記
|
Trackback(1)
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Comments(2)
Tracked
from 江戸川自転車クラブ
at 2006-07-05 20:00
タイトル : バックハウス
今日は病院から戻ってなんとなくバックハウスの最後の演奏会の事を思い出してCDを聞いている。学生の頃NHK-FM放送で流されたバックハウス最後の演奏会の様子を(たしか皆川達夫さんの解説で)聞いたことが忘れられなかった。出来ることならその録音があればと思っていたのだが、今年になってCDとして販売されていることを知り、早速購入した。30年もの間耳にこびりついて忘れられなかったのがシューベルトの即興曲変イ長調。演奏会の途中で心臓発作を起こした85歳のバックハウスがしばらく休憩の後、演奏曲目を変更して行った最後...... more
今日は病院から戻ってなんとなくバックハウスの最後の演奏会の事を思い出してCDを聞いている。学生の頃NHK-FM放送で流されたバックハウス最後の演奏会の様子を(たしか皆川達夫さんの解説で)聞いたことが忘れられなかった。出来ることならその録音があればと思っていたのだが、今年になってCDとして販売されていることを知り、早速購入した。30年もの間耳にこびりついて忘れられなかったのがシューベルトの即興曲変イ長調。演奏会の途中で心臓発作を起こした85歳のバックハウスがしばらく休憩の後、演奏曲目を変更して行った最後...... more
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antsuan at 2006-07-03 20:57
楽器も弾けず音譜も読めない口笛も吹けない身なのですが、私の場合は詩の方から歌を理解するようになりました。それは大学寮歌であり軍歌でありましたが、やはりそれは祖父や父からの影響であったようです。それから映画音楽から発展していろいろな音楽が好きになりました。映画「地上より永遠に」のモンゴメリー・クリフトが吹く追悼のラッパ、それから殆ど知られていない実録映画「硫黄島」の全編に流れるスキャットなどが心に残っています。
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knaito57 at 2006-07-04 10:00
下戸なりに「酒の愉しみと効用」を認めていますが、酒の“記憶”となると良いものは皆無。その点、永くつきあえる音楽やスポーツを持つ人はそれだけで豊かで幸せだと思います。