2006年 12月 31日
■水涸れにつき…… |
大晦日に、おじさんがひとり、土手を歩いている。我ながら美的とも叙情性あふれる光景とも言いかねる。他人が見たらどう思うだろう。
(バカなやつ、ひま人、他にやることはないのか、家のほうは一体どうなってるんだいetc.)対岸のゴルフ場に小さな人影を見るとき私が思うのと同じなら、そんなところだろう。
(家では、カネのやりくり、掃除・買い物・お節料理づくりとてんやわんやだろうに)……わが家と同じなら、彼らの内情もそんなところだろうに。
十数年前、私は会社勤めの終盤で喘ぐような日々だった。休日を待ちかねて土手に向かったのは体力強化が目的だったが、現実逃避であったことも否定できない。
当時は、会社帰りには決まってお茶の水のスポーツクラブに通っていた。そこでクリスマスイブに顔を合わせた同僚の好青年に「きょうは他に用がないのか」と嫌味を言ったことが何度かある。もちろん当方はクリスマスも年賀状書きも関係ないし、筋力トレーニングに現状打開の手応えを感じ始めた時期だった。
不信心のへそ曲がりは生来ではあるが、憚ることもなくなった近年では儀式や世俗的シキタリへの無頓着と反発がさらに強く、浮世離れした“土手の隠者”となりつつある。
「身体さえ鍛えておけばなんとかなるのでは」という気持と「こうしてはいられない」という思いに揺れ動きながら歩くうち、私は意外なことに気づいた。それは心と体の相関関係というか、歩くことは筋肉運動以上に精神活動を活発にするという事実。土手にはさまざまな観察や発見があり、実にいろいろなことを考える。思いもよらないアイデアや発想が生まれ、歩いていなければ思い出すはずがなかったようなことどもがつぎつぎに脳裡に浮かぶ。それで、つかのま「見たこと・感じたこと・考えたこと」を、すぐまた忘却してしまうのが惜しい気がして文章にとどめることにした。すなわち自己表現・自己満足である。
そんな個人的な感懐を述べたところでなんということもないのだが、あるときふと考えた──私の土手体験が同じようにウォーキングをする人だけでなく、散歩や自然とのふれあいに縁遠くなっている人々の遠い記憶を呼び起こす呼び水になるのではないか──そんなわけで、このブログは江戸川礼賛やお国自慢を意図するものではない。健脚や自然観察眼やカメラ技術を誇示するものでもない。
ところで、野草や小鳥や風の話をしているだけなら人畜無害なのだが、つい言わずもがなの憎まれ口をたたいてしまう。なにしろ世の中に好きなものごとよりも嫌いな事柄のほうがずっと多い偏狭おやじで、近ごろとみに不興不快が高じている。で「あれにかみつき、これをこき下ろし、なにを斬り、かにをやり玉にあげ、何でもかんでも面白くねえ」と身勝手な放言をする。それでますます世間を狭くするのは自業自得だが、見知らぬ善意のブログ訪問者に反発反感を抱かせるのはまったく本意ではない。
世の中に人の来るこそうるさけれ とはいふもののお前ではなし
世の中に人の来るこそうれしけれ とはいふもののお前ではなし(百鬼園)
上は蜀山人の有名な狂歌。下はそれをもじった内田百間の作で、私はそれを墨書して玄関に貼っていた百間さんの辛辣な偏屈ぶりが好きな性分なのだ。
強調したいのは下の句「とはいふもののお前ではなし」。つまり「あんたは例外」と申しあげたいのだ。いくら私が好き嫌いの主観をぶちまけたところで、土手の風に消されてしまうばかり。それどころか、あまりこだわれば友人知己だけででなく家族までも失うことになりかねない。だから、私の知り合いである「あんたは別ですよ」と言い訳をしておきたいわけだ。
そのうえで言いたいことは──
・私は(余生くらい)自分の考え方や好き嫌いをハッキリさせて生きたい
・当然、価値観が違っているからといって相手の全人格を否定したりはしない
・異なる意見や異質の個性の衝突こそ面白い(同類が集まっても大したことにならない)
・そのためには自分と違う存在や価値観を認め合うことが大切(人はそれぞれなのだ)
『お熱いのがお好き』(ビリー・ワイルダー監督)の終幕近く、女に化けたジャック・レモンが好色おやじに結婚を迫られて窮余、ついに告白する。「じつはおれ。男なんだよ」
おやじは驚きもせず答える。「いいんだ。完ぺきな人間なんていないんだから気にしない」(日本語訳は正確ではありません)
何かにつけて好みのうるさいことを自覚しているだけに、近ごろ私はこんなけた外れな雅量を持ちたいと願っている。
◎謹告
当ブログは水涸れ(ネタ不足)につき、今回をもって一旦収束といたします。今後は看板を下ろさない程度に月1度くらい更新、皆様のブログを訪問しコメントさせていただくことはこれまでどおりと考えています。ご厚誼にお礼申しあげます。それでは皆様よいお年を。
(バカなやつ、ひま人、他にやることはないのか、家のほうは一体どうなってるんだいetc.)対岸のゴルフ場に小さな人影を見るとき私が思うのと同じなら、そんなところだろう。
(家では、カネのやりくり、掃除・買い物・お節料理づくりとてんやわんやだろうに)……わが家と同じなら、彼らの内情もそんなところだろうに。
十数年前、私は会社勤めの終盤で喘ぐような日々だった。休日を待ちかねて土手に向かったのは体力強化が目的だったが、現実逃避であったことも否定できない。
当時は、会社帰りには決まってお茶の水のスポーツクラブに通っていた。そこでクリスマスイブに顔を合わせた同僚の好青年に「きょうは他に用がないのか」と嫌味を言ったことが何度かある。もちろん当方はクリスマスも年賀状書きも関係ないし、筋力トレーニングに現状打開の手応えを感じ始めた時期だった。
不信心のへそ曲がりは生来ではあるが、憚ることもなくなった近年では儀式や世俗的シキタリへの無頓着と反発がさらに強く、浮世離れした“土手の隠者”となりつつある。
「身体さえ鍛えておけばなんとかなるのでは」という気持と「こうしてはいられない」という思いに揺れ動きながら歩くうち、私は意外なことに気づいた。それは心と体の相関関係というか、歩くことは筋肉運動以上に精神活動を活発にするという事実。土手にはさまざまな観察や発見があり、実にいろいろなことを考える。思いもよらないアイデアや発想が生まれ、歩いていなければ思い出すはずがなかったようなことどもがつぎつぎに脳裡に浮かぶ。それで、つかのま「見たこと・感じたこと・考えたこと」を、すぐまた忘却してしまうのが惜しい気がして文章にとどめることにした。すなわち自己表現・自己満足である。
そんな個人的な感懐を述べたところでなんということもないのだが、あるときふと考えた──私の土手体験が同じようにウォーキングをする人だけでなく、散歩や自然とのふれあいに縁遠くなっている人々の遠い記憶を呼び起こす呼び水になるのではないか──そんなわけで、このブログは江戸川礼賛やお国自慢を意図するものではない。健脚や自然観察眼やカメラ技術を誇示するものでもない。
ところで、野草や小鳥や風の話をしているだけなら人畜無害なのだが、つい言わずもがなの憎まれ口をたたいてしまう。なにしろ世の中に好きなものごとよりも嫌いな事柄のほうがずっと多い偏狭おやじで、近ごろとみに不興不快が高じている。で「あれにかみつき、これをこき下ろし、なにを斬り、かにをやり玉にあげ、何でもかんでも面白くねえ」と身勝手な放言をする。それでますます世間を狭くするのは自業自得だが、見知らぬ善意のブログ訪問者に反発反感を抱かせるのはまったく本意ではない。
世の中に人の来るこそうるさけれ とはいふもののお前ではなし
世の中に人の来るこそうれしけれ とはいふもののお前ではなし(百鬼園)
上は蜀山人の有名な狂歌。下はそれをもじった内田百間の作で、私はそれを墨書して玄関に貼っていた百間さんの辛辣な偏屈ぶりが好きな性分なのだ。
強調したいのは下の句「とはいふもののお前ではなし」。つまり「あんたは例外」と申しあげたいのだ。いくら私が好き嫌いの主観をぶちまけたところで、土手の風に消されてしまうばかり。それどころか、あまりこだわれば友人知己だけででなく家族までも失うことになりかねない。だから、私の知り合いである「あんたは別ですよ」と言い訳をしておきたいわけだ。
そのうえで言いたいことは──
・私は(余生くらい)自分の考え方や好き嫌いをハッキリさせて生きたい
・当然、価値観が違っているからといって相手の全人格を否定したりはしない
・異なる意見や異質の個性の衝突こそ面白い(同類が集まっても大したことにならない)
・そのためには自分と違う存在や価値観を認め合うことが大切(人はそれぞれなのだ)
『お熱いのがお好き』(ビリー・ワイルダー監督)の終幕近く、女に化けたジャック・レモンが好色おやじに結婚を迫られて窮余、ついに告白する。「じつはおれ。男なんだよ」
おやじは驚きもせず答える。「いいんだ。完ぺきな人間なんていないんだから気にしない」(日本語訳は正確ではありません)
何かにつけて好みのうるさいことを自覚しているだけに、近ごろ私はこんなけた外れな雅量を持ちたいと願っている。
◎謹告
当ブログは水涸れ(ネタ不足)につき、今回をもって一旦収束といたします。今後は看板を下ろさない程度に月1度くらい更新、皆様のブログを訪問しコメントさせていただくことはこれまでどおりと考えています。ご厚誼にお礼申しあげます。それでは皆様よいお年を。
by knaito57
| 2006-12-31 17:16
| ■ときどき日記
|
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Comments(4)
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antsuan at 2006-12-31 17:36
同じところに住んではや五十年、こっちはちっとも替わらないつもりでいるのに、いつの間にか周りがどんどん替わって行って、こちらがよそ者のように肩身が狭く感じるこの頃です。精神力と体力、相関関係が在る事は分かっていてもこの寒さ、なかなか外に出歩く事がおっくうになってしまいました。体力回復のために来年こそは海岸の散歩を心掛けて実行しようと思います。が、自信がないので小さな声で言います。
来年も土手からのお便りを楽しみにしております。ゴッド・ファーザーまだ観ていません。こちらもマイペースで書き込みするつもりで居ります。どうか来年も宜しくお願い申し上げます。
来年も土手からのお便りを楽しみにしております。ゴッド・ファーザーまだ観ていません。こちらもマイペースで書き込みするつもりで居ります。どうか来年も宜しくお願い申し上げます。
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saheizi-inokori at 2007-01-03 14:21
水が直ぐにも満々と湛えられることと信じています。
今年もよろしくお願いします。
今年もよろしくお願いします。
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散歩好き
at 2007-01-04 17:56
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山折哲雄という宗教学者の「悪と往生」を読んだ時、親鸞も道元も晩年は仏に抱かれニコニコしていたに違いないと書いてあった事に感じて「人智ではなく何者かに動かされていると思えたら穏やかなのかな」と感ぜられるよう努力しようと思っています。無言の歩行はその一歩と思っています。宗教は教育を受けないと間違った方向に行くかもしれませんが魅力を感じます。
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cyclist_maki at 2007-01-08 23:25