2007年 07月 05日
●土手効果 |
毎度“土手礼賛”を書いている。水涸れ(タネ切れ)を感じることもしばしばだが、細々ながら流れつづけているのは、土手を歩いているうちに何かしら書く材料を見つけるからだ。つまり手ぶら&空っぽ頭で出かけても、帰りにはおみやげがあるのだから仕入れにいくようなもの。頭の中が行きと帰りでちがうとは、考えてみれば土手歩きの不思議な作用ではある。
いかがわしげな広告でよく見かける“使用前・使用後”という言葉がある。肥満のとスリムのと、あるいは薄毛のとふさふさ髪のと、同一人物の写真を対比して見せて「この商品を使うとこんなに変わります!」というあれだ。
昔の少年雑誌にも「背が10センチ高くなる靴」だとか、筋力がつく「N快癒器」とか蓄膿症が治って成績アップする「M式鼻療器」などの広告があった。同世代の友人とのおしゃべりではすぐに分かり合える、ちょっと懐かしい手法でもある。
まことに主観的でとりとめのない事柄なので「それがどうした。だから何だというんだ」と迫られると内心たじろいでしまうのだが、今回は心と体の相関関係について書こうとしている。
早い話が、土手に出かける前と帰ってくるときとでは、私の何かが劇的(というほどでもないが)に変化している。もちろん外見のことではない。くすんだような見栄えのしないおやじであることは、行きも帰りも同じだ。
身体的な顕著な変化が、疲労・発汗・喉のかわきなどであることはいうまでもない。またその反復と継続が少しずつ体力を強化し健康を増進していることも確かだ。けれどもここで強調したいのは、ウォーキングがもたらす精神的な作用と変化についてなのだ。
土手の魅力とそこを歩く楽しみについては、これまでさまざまな角度から述べてきた。大きな空とワイドな眺望、水と緑の安らぎ、野草や小鳥などの自然観察も興味がつきない。その中を筋肉を躍動させ大手を振って歩くのは気分がいい、というのも蛇足だろう。
ある日、歩きながら“土手歩きの効用”についてつらつら考えてみた。その結論をつきつめていえば“心の開放=解放”ということになる。
仕事、家庭、人間関係、お金、健康、老後……シンプルな生き方を心がけても、いつも私にまつわりつく世俗的な悩み、なんとか打開しなければならない当面の難問や乗り越えるべき課題は、あげればきりがないほど多い。そしてそれはひとり部屋にこもっていたりすると、頭と心に際限もなく増殖して進退窮まって落ち込みやすい。だから以前にはそんな気分とささくれだった神経をもてあまして土手に向かうことがよくあった。
2時間ほど歩いての帰り道で、それがずいぶんと軽減されたり、ときには解消された気分にさえなっていることを何度も体験した。こちろん現実には何の変化も進展もあるわけでない。その意味では酔っぱらいの現実逃避と似ているのだが、ちがうのは心の持ち方や“構え”に変化が生じている点だ。
といってもこれは私の発見した理論などではなく、つとに先人たちがその体験から生活の知恵として実践してきたことにすぎない。たとえばスポーツで気力増進、散歩や買い物で気分転換、掃除や洗濯で心が落ち着く、食べたりガムをかむことでも心に変化……いずれも体と心の相関作用によるもので、私の“土手効果”はそのバリエーションにすぎない。
軽い運動が頭脳や精神の活発化に有効であることは周知の事実だが、私にはその仕組みはわからない。それでも「理屈はわからなくても功徳は存在する」わけで、せっせと歩くうちにたいていの問題が世俗的で矮小な悩みに思えてくる。それで問題解決ないしは棚上げ、またはあまり気にかけない気分に変わっている。この事実こそ重要なのだ。
もちろん筋肉活動による気分の発散と、着実にアップしていく体力が自信の裏付けとなっていることを忘れてはいけないだろう。そのうえで、土手ウォーキングが身体運動である以上にすぐれた精神運動であり、心のリハビリや強化に有効だと思う理由である。
庭で孵ったヒヨが三羽、そろってデビューするようになった。寄り添うように固まっているところへ親が交代で餌を運んでくる。さわがしく口をあけるようすに、幼い日の自分たち兄弟を連想する。可愛げのある小鳥ではないが、ライオンでもクマでもヒトでも子どもはかわいい。
お昼寝タイムもあるようだが、一日この繰り返しだから親もラクじゃない。夕暮れに二羽が電線に並んでいると「きょうは忙しかったね」といっているように思われる。
昨日、江戸川風景の“散歩好き”さんがツバメの幼鳥を紹介していたのに便乗して、ヒヨの三兄弟をアップした。
いかがわしげな広告でよく見かける“使用前・使用後”という言葉がある。肥満のとスリムのと、あるいは薄毛のとふさふさ髪のと、同一人物の写真を対比して見せて「この商品を使うとこんなに変わります!」というあれだ。
昔の少年雑誌にも「背が10センチ高くなる靴」だとか、筋力がつく「N快癒器」とか蓄膿症が治って成績アップする「M式鼻療器」などの広告があった。同世代の友人とのおしゃべりではすぐに分かり合える、ちょっと懐かしい手法でもある。
まことに主観的でとりとめのない事柄なので「それがどうした。だから何だというんだ」と迫られると内心たじろいでしまうのだが、今回は心と体の相関関係について書こうとしている。
早い話が、土手に出かける前と帰ってくるときとでは、私の何かが劇的(というほどでもないが)に変化している。もちろん外見のことではない。くすんだような見栄えのしないおやじであることは、行きも帰りも同じだ。
身体的な顕著な変化が、疲労・発汗・喉のかわきなどであることはいうまでもない。またその反復と継続が少しずつ体力を強化し健康を増進していることも確かだ。けれどもここで強調したいのは、ウォーキングがもたらす精神的な作用と変化についてなのだ。
土手の魅力とそこを歩く楽しみについては、これまでさまざまな角度から述べてきた。大きな空とワイドな眺望、水と緑の安らぎ、野草や小鳥などの自然観察も興味がつきない。その中を筋肉を躍動させ大手を振って歩くのは気分がいい、というのも蛇足だろう。
ある日、歩きながら“土手歩きの効用”についてつらつら考えてみた。その結論をつきつめていえば“心の開放=解放”ということになる。
仕事、家庭、人間関係、お金、健康、老後……シンプルな生き方を心がけても、いつも私にまつわりつく世俗的な悩み、なんとか打開しなければならない当面の難問や乗り越えるべき課題は、あげればきりがないほど多い。そしてそれはひとり部屋にこもっていたりすると、頭と心に際限もなく増殖して進退窮まって落ち込みやすい。だから以前にはそんな気分とささくれだった神経をもてあまして土手に向かうことがよくあった。
2時間ほど歩いての帰り道で、それがずいぶんと軽減されたり、ときには解消された気分にさえなっていることを何度も体験した。こちろん現実には何の変化も進展もあるわけでない。その意味では酔っぱらいの現実逃避と似ているのだが、ちがうのは心の持ち方や“構え”に変化が生じている点だ。
といってもこれは私の発見した理論などではなく、つとに先人たちがその体験から生活の知恵として実践してきたことにすぎない。たとえばスポーツで気力増進、散歩や買い物で気分転換、掃除や洗濯で心が落ち着く、食べたりガムをかむことでも心に変化……いずれも体と心の相関作用によるもので、私の“土手効果”はそのバリエーションにすぎない。
軽い運動が頭脳や精神の活発化に有効であることは周知の事実だが、私にはその仕組みはわからない。それでも「理屈はわからなくても功徳は存在する」わけで、せっせと歩くうちにたいていの問題が世俗的で矮小な悩みに思えてくる。それで問題解決ないしは棚上げ、またはあまり気にかけない気分に変わっている。この事実こそ重要なのだ。
もちろん筋肉活動による気分の発散と、着実にアップしていく体力が自信の裏付けとなっていることを忘れてはいけないだろう。そのうえで、土手ウォーキングが身体運動である以上にすぐれた精神運動であり、心のリハビリや強化に有効だと思う理由である。
庭で孵ったヒヨが三羽、そろってデビューするようになった。寄り添うように固まっているところへ親が交代で餌を運んでくる。さわがしく口をあけるようすに、幼い日の自分たち兄弟を連想する。可愛げのある小鳥ではないが、ライオンでもクマでもヒトでも子どもはかわいい。
お昼寝タイムもあるようだが、一日この繰り返しだから親もラクじゃない。夕暮れに二羽が電線に並んでいると「きょうは忙しかったね」といっているように思われる。
昨日、江戸川風景の“散歩好き”さんがツバメの幼鳥を紹介していたのに便乗して、ヒヨの三兄弟をアップした。
by knaito57
| 2007-07-05 17:48
| ●土手のたはこと
|
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Comments(4)
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saheizi-inokori at 2007-07-06 00:02
バリエーション、土手歩きの方が本道と思いますが、ガム噛むのは足元にも及ばない。
土手を歩いている間はあまり他のことが出来ないのではありませんか。
洗濯も、金勘定も、読書すら。
それが開放感につながるのかもしれないと思います。
何かしてないと不安になってしまう貧乏性はそう思います。
やってみなくちゃ!
土手を歩いている間はあまり他のことが出来ないのではありませんか。
洗濯も、金勘定も、読書すら。
それが開放感につながるのかもしれないと思います。
何かしてないと不安になってしまう貧乏性はそう思います。
やってみなくちゃ!
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knaito57 at 2007-07-06 07:53
そうなんです、saheiziさん。無心に筋肉を動かすだけでなにもしないのがポイントです。そうすれば五感がフリーになって、思いがけないものが見えたり、考えが浮かんだりします。
会社勤めのころは、未明から野茂の試合や定時のニュースを聴いたものですが、近ごろはラジオを聴きながら土手を歩く人を見ると(もったいないなあ)と思います。ぜいたくに心を遊ばせることができるせっかくの時間を世俗的な行為で台無しにしている……と。
このところ体調が万全でないご様子。十分にご自愛ください。
会社勤めのころは、未明から野茂の試合や定時のニュースを聴いたものですが、近ごろはラジオを聴きながら土手を歩く人を見ると(もったいないなあ)と思います。ぜいたくに心を遊ばせることができるせっかくの時間を世俗的な行為で台無しにしている……と。
このところ体調が万全でないご様子。十分にご自愛ください。
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散歩好き
at 2007-07-06 08:22
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漢方では肺は「憂」を主ると言います。皮膚は肺に繋がるとします。毛穴が開いて汗をかく事は「憂」を開放するとします。
仏教では座禅と共に歩行業もあるそうですが無心になれる方法と思います。
鳥の観察は巣の近くが一番と思っていますが巣と行き当たらず写真のような姿に憧れるのですが写せないのが残念です。
仏教では座禅と共に歩行業もあるそうですが無心になれる方法と思います。
鳥の観察は巣の近くが一番と思っていますが巣と行き当たらず写真のような姿に憧れるのですが写せないのが残念です。
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knaito57 at 2007-07-06 09:11
医学にも宗教にも疎い私ですが、たとえば森田療法やスポーツ心理学をかじると妙に納得する考え方に出会います。歩行業なんてのも興味があります。散歩でもウォーキングでもマラソンでも、それを実践する人は「理屈はわからなくても効用を実感」しているわけですね。