2008年 10月 20日
◎せこい話 |
同じ場所を飽きずに歩いているといっても、たまにはいつもと反対の南(下流・松戸方面)に向かうことがある。シロバナタンポポを探すとか古ヶ崎のコスモス原を訪ねるとか目的がある場合もあるが、たいていは家を出て土手にのぼるまでの5分間ほどに生じた「心の揺れ」による。それは家庭料理に飽きたからたまには外食とか、定食ばかりでなくちょっとおごろうというような心理ではなく、単なる気まぐれだ。
(向こう側のホームに行って、下り電車に乗りたい)──私は学生時代から長いサラリーマン人生を通じて、ずっとそういう叶わぬ願望を秘めていた。京王線や小田急電車の場合は、ただそうするだけで高尾山や江ノ島に行くことができる。にもかかわらず、実行したことは一度もなかった。隠退生活者となったいま、気随気ままにできる自由でリッチな境地を確認してほくそ笑みたい気分なのだ。
流山橋の橋脚の高みに、段ボールなどで囲ったホームレスの居宅がある。さらに下流の河川敷にはブルーテントの小屋が二つある。それぞれに生活用具や自転車まで備えており、陽気のいい季節にはなかなかの暮らしぶりに思われる。
(金銭プアでも時間リッチの自由な人生)──金融危機に狼狽する人が多い一方で、衣食に事欠きながら生き生きと暮らす人々もいる世の中のふしぎ。私は、土手を歩く歳月にふくらんだヒッピーまがいの志向に気づいている。
週末毎に母の隠居所に通う私は、その近くのスポーツクラブの会員になっている。家事をする以外は終日、向かい合って歌謡ビデオを見るばかりの生活なので、筋肉運動による発散を期待して入会した。
会費は割安なデイ会員で月6500円。1回2時間ほどで、平均7回行くから高いとはいえない。それでも、かぎられた時間に自ら課したトレーニングをこなすのは忙しく、前後の運動はもとよりシャワーも省略してがんばる。平日の日中、のんびりとやっている人々の中にあって、ハーハーと息を切らしてマシンからマシンに移動する姿は異色だろう。マシンで遊んで、おしゃべりして、ジャグジー風呂やサウナに入って、洗髪まですませて帰る人にくらべると、われながら慌ただしくゆとりがない。(会費のモトをとろうとしているんじゃ)などと思われるのは心外なのだが。
自宅前からJR武蔵野線の駅まで、バスに乗ると160円かかる。しばしばこれを使わずに35分かけて歩く。倹約と準備運動という一石二鳥のつもりだ。電車賃は片道890円。これはしようがないが、車内ではなるべく席に座らない。立っていることと、沿線の荒涼とした景色を見るのが好きだから。遠からず座席を譲られそうなおやじが突っ張っているようすもまた異なる存在かしれないが、ぼんやりと車窓風景を見ながら考える。──JRには「坐らない客は100円引き」というアイデアを出す社員はいないのかな。
およそ趣味・稽古事というのは金のかかるものと決まっているが、土手は入場無料、時間も交通費もかけず着の身着のままでそこに立つことができる。それで存分に発散できるのだから、こんないいことはない。
ここでの私のいでたちといえば、ウエアもシューズも息子のお古だから颯爽たる姿とはほど遠い。ポケットにはコインひとつ入っていない。カネを使う場所がないのだからそれも当然だが、実際、この十数年間をふり返っても、関宿まで遠征したときにジュースを買ったのが唯一の経済行為なのだ。おまけに土手の菜の花やカラシナを摘んで食するのが好きというのだから、消費経済への貢献はゼロに近い。浮世離れした土手の仙人を自称するゆえんだ。
ついでにいえば、私はほとんど医者にかからない。記憶にあるのは歯医者に行ったくらいで、病気やけがをしたことはない。人気の健康法やサプリメントにも無縁だ。そのために相当の出費をする人が多いことを考慮すれば、スポーツクラブの会費は安いもんだ。──高齢者医療費の膨張とか健康保険組合の破綻とかが問題となる当節、オレなんか文化の日に“なんとか功労章”をもらってもいいんじゃないかな。
さらにいえば、歩くときばかりか電車に乗るにも時計を持たなくなっている。もちろんケータイや乗車カードなどという変なものも身につけない。そういうものは、高踏派の精神になじまないと考えているから。せっかくの境遇なのだから、時間を気にすることなく、目に見えぬものに管理されることもないフリーな人間でありたいのだ。
「せこい」という言葉がある。よく耳にするし、そのニュアンスもわかるのだが、私の場合、この言葉を覚えたのは社会人になってからと遅く、自分で使うこともない。なにか引っかかるものがあって正規の語彙帳には入れていない言葉なのだ。
今回の文章はいかにも「せこい」と思われそうなので、それを『広辞苑』と『大辞林』で調べてみた。そしてもとは芸能界・芸人言葉だと知り、久しく縁がなかったことに納得がいった。一般にこの言葉は「けちくさい・みみっちい」の意味で使われるが、第一義は「わるい・へた・くだらない」なのだと初めて知ったわけだ。
どうか、この文章を読んで「せこいやつ」と思わないでいただきたい。私としては、せこさを超越した“気分リッチ”──おごりを戒めて「つましく」しかも「おうように」生きたいともがいているのですから。
(向こう側のホームに行って、下り電車に乗りたい)──私は学生時代から長いサラリーマン人生を通じて、ずっとそういう叶わぬ願望を秘めていた。京王線や小田急電車の場合は、ただそうするだけで高尾山や江ノ島に行くことができる。にもかかわらず、実行したことは一度もなかった。隠退生活者となったいま、気随気ままにできる自由でリッチな境地を確認してほくそ笑みたい気分なのだ。
流山橋の橋脚の高みに、段ボールなどで囲ったホームレスの居宅がある。さらに下流の河川敷にはブルーテントの小屋が二つある。それぞれに生活用具や自転車まで備えており、陽気のいい季節にはなかなかの暮らしぶりに思われる。
(金銭プアでも時間リッチの自由な人生)──金融危機に狼狽する人が多い一方で、衣食に事欠きながら生き生きと暮らす人々もいる世の中のふしぎ。私は、土手を歩く歳月にふくらんだヒッピーまがいの志向に気づいている。
週末毎に母の隠居所に通う私は、その近くのスポーツクラブの会員になっている。家事をする以外は終日、向かい合って歌謡ビデオを見るばかりの生活なので、筋肉運動による発散を期待して入会した。
会費は割安なデイ会員で月6500円。1回2時間ほどで、平均7回行くから高いとはいえない。それでも、かぎられた時間に自ら課したトレーニングをこなすのは忙しく、前後の運動はもとよりシャワーも省略してがんばる。平日の日中、のんびりとやっている人々の中にあって、ハーハーと息を切らしてマシンからマシンに移動する姿は異色だろう。マシンで遊んで、おしゃべりして、ジャグジー風呂やサウナに入って、洗髪まですませて帰る人にくらべると、われながら慌ただしくゆとりがない。(会費のモトをとろうとしているんじゃ)などと思われるのは心外なのだが。
自宅前からJR武蔵野線の駅まで、バスに乗ると160円かかる。しばしばこれを使わずに35分かけて歩く。倹約と準備運動という一石二鳥のつもりだ。電車賃は片道890円。これはしようがないが、車内ではなるべく席に座らない。立っていることと、沿線の荒涼とした景色を見るのが好きだから。遠からず座席を譲られそうなおやじが突っ張っているようすもまた異なる存在かしれないが、ぼんやりと車窓風景を見ながら考える。──JRには「坐らない客は100円引き」というアイデアを出す社員はいないのかな。
およそ趣味・稽古事というのは金のかかるものと決まっているが、土手は入場無料、時間も交通費もかけず着の身着のままでそこに立つことができる。それで存分に発散できるのだから、こんないいことはない。
ここでの私のいでたちといえば、ウエアもシューズも息子のお古だから颯爽たる姿とはほど遠い。ポケットにはコインひとつ入っていない。カネを使う場所がないのだからそれも当然だが、実際、この十数年間をふり返っても、関宿まで遠征したときにジュースを買ったのが唯一の経済行為なのだ。おまけに土手の菜の花やカラシナを摘んで食するのが好きというのだから、消費経済への貢献はゼロに近い。浮世離れした土手の仙人を自称するゆえんだ。
ついでにいえば、私はほとんど医者にかからない。記憶にあるのは歯医者に行ったくらいで、病気やけがをしたことはない。人気の健康法やサプリメントにも無縁だ。そのために相当の出費をする人が多いことを考慮すれば、スポーツクラブの会費は安いもんだ。──高齢者医療費の膨張とか健康保険組合の破綻とかが問題となる当節、オレなんか文化の日に“なんとか功労章”をもらってもいいんじゃないかな。
さらにいえば、歩くときばかりか電車に乗るにも時計を持たなくなっている。もちろんケータイや乗車カードなどという変なものも身につけない。そういうものは、高踏派の精神になじまないと考えているから。せっかくの境遇なのだから、時間を気にすることなく、目に見えぬものに管理されることもないフリーな人間でありたいのだ。
「せこい」という言葉がある。よく耳にするし、そのニュアンスもわかるのだが、私の場合、この言葉を覚えたのは社会人になってからと遅く、自分で使うこともない。なにか引っかかるものがあって正規の語彙帳には入れていない言葉なのだ。
今回の文章はいかにも「せこい」と思われそうなので、それを『広辞苑』と『大辞林』で調べてみた。そしてもとは芸能界・芸人言葉だと知り、久しく縁がなかったことに納得がいった。一般にこの言葉は「けちくさい・みみっちい」の意味で使われるが、第一義は「わるい・へた・くだらない」なのだと初めて知ったわけだ。
どうか、この文章を読んで「せこいやつ」と思わないでいただきたい。私としては、せこさを超越した“気分リッチ”──おごりを戒めて「つましく」しかも「おうように」生きたいともがいているのですから。
by knaito57
| 2008-10-20 11:10
| ◎土手の細道
|
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Comments(6)
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散歩好き
at 2008-10-20 16:16
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ジムなるところへ通って体を引き締めたいと欲望を持っていますが長時間店に拘束されると何も出来ません。
川は花や鳥を写すのが楽しく目で見た瞬間は如何成っているか分からない事が形で残っているのが面白く無心で川に行っています。
大きめの黒のトレーニングウェアーに長靴、野球帽で近所さんの弟「すげぇー格好」で川に行っていると言われているが意に介しません。
川は花や鳥を写すのが楽しく目で見た瞬間は如何成っているか分からない事が形で残っているのが面白く無心で川に行っています。
大きめの黒のトレーニングウェアーに長靴、野球帽で近所さんの弟「すげぇー格好」で川に行っていると言われているが意に介しません。
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knaito57 at 2008-10-20 18:14
ええ、もう格好はかまいませんねえ。私は古びたシューズですが、河川敷に降りる散歩好きさんの場合は長靴がベストですね。
このところメジロ、シジュウカラなどが目だつようになり、土手ではモズも見かけました。秋景色もよく、楽しみの多い季節になりました。
このところメジロ、シジュウカラなどが目だつようになり、土手ではモズも見かけました。秋景色もよく、楽しみの多い季節になりました。
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saheizi-inokori at 2008-10-21 07:11
セコな客、って噺家はいうようですよ。
芸が分からないダメな客。
セコな人生は送りたくないです。高踏派は無理としても、ケータイ必需品ですもの^^。
満員電車では空いている席に座らない客はセコな客です。空間をつくれって。
私はまだまだセコの真ん中にいるようです。
芸が分からないダメな客。
セコな人生は送りたくないです。高踏派は無理としても、ケータイ必需品ですもの^^。
満員電車では空いている席に座らない客はセコな客です。空間をつくれって。
私はまだまだセコの真ん中にいるようです。
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knaito57 at 2008-10-21 08:49
楽屋でのそういう会話、よくわかりますよ、saheiziさん。それが「せこい」本来の正しい用法なんでしょうね。へんな話につきあってくださりありがとうございました。
先日の小三治の記事へのコメントは盛況でしたね。私もビデオにとりながらしっかり見ました。未知のエピソードもあったけれど、永六輔なんかとやっている句会への言及がないのは意外でした。たしかに当世随一の噺家だと思います。
先日の小三治の記事へのコメントは盛況でしたね。私もビデオにとりながらしっかり見ました。未知のエピソードもあったけれど、永六輔なんかとやっている句会への言及がないのは意外でした。たしかに当世随一の噺家だと思います。
強引に「せこい」の反対を「ゴーカ」(豪華)と結びつけて、送らせていただきますが、ともかくすごい配役です。エキストラのような出演者も、顔も名前も知っている俳優が多い。ここまで豪華に配役した映画はなかったのでは・・・・おじいさんは3年間で3回の総辞職→解散→総選挙・・・この話は、十二分に彼の血となり、肉となっているはずで、どちらにせよ、彼の思考に影響を与えているの思います。
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knaito57 at 2008-11-01 12:50
近所さん。なるほど贅沢なキャストですね。年表を追いながら、政治家が多士済々だった時代を思い起こしました。森繁はさすがで、吉田の雰囲気を出してますね。梅宮の河野一郎、若山の三木武吉も笑えます。
広川弘禅(藤岡)で世田谷烏山を思い出しました。甲州街道沿いの材木屋で、選挙のときに「地元に映画館を作った男」を宣伝していました。
近所さんの旺盛な好奇心にはいつもながら圧倒されます。
広川弘禅(藤岡)で世田谷烏山を思い出しました。甲州街道沿いの材木屋で、選挙のときに「地元に映画館を作った男」を宣伝していました。
近所さんの旺盛な好奇心にはいつもながら圧倒されます。