2005年 05月 18日
10 休み時間 |
■元旦歩き
大晦日恒例の「紅白歌合戦」がつまらなくて終わりまで見ず。年々、テレビに興が乗らなくなるのは、やはりトシのせいか。いつもの休日前夜同様、朝の歩きを期して早寝。
翌朝。起き抜けに、そっと家を出る。
ねぼけまなこで土手に近づくと、すでに大勢の影があった。(土左右衛門?)と一瞬思ったが、そうではなかった。5時40分と思って出かけたのだが、じつは6時40分で、すでに初日の出を待つ人々が集まっていたのだ。
いつになくにぎやかな人々。若者のグループあり、カップルもいる。「初参加の方……」と点呼をしているのは、町内のご来光詣での団体らしい。もう日の出間近で、ざわついている。それを後目に歩き出すとすぐ、いつものように雑木林の向こうからまばゆい初日が昇り始める。6時55分。
人影が少なくなったあたりで、家族連れと行き会う。太陽に向かって、親子で「おめでとう!」と3、4回叫んでいた。その声が森や対岸の堤にこだまして、感動的な賀詞だった。
97年の夜明けは冷え込みもなく、気温5〜6度。手袋は必要だが耳をおおうほどでもない、おだやかな元旦だ。ラジオを聞きながら歩く。
30分ほどして九州も日の出を迎えたらしい。熊本の「日本一長い階段」を昇った人々にレポーターが聞いている。
──毎年いらっしゃるのですか?
ああ、ここは何度のぼっても楽しいよ。
──なにが楽しいんですか?
そりゃ、歩くことだね。
そんなやりとりの後、そろって「バンザイ!」とやっていた。これには「?」。まだ「おはよう」のほうがましに思えた。
渇水期の川面に、濃いもやが立っている。日が昇るとさらにもやって、モネの「日の出」みたいな情景だ。
帰路、ハトをかごに入れた人と出会う。ラジオはP・マッカートニーがサーの称号を受けることになったと伝えていた。
この日は14キロをきっちり2時間20分。いつもと変わらないようで、いつもと違う歩きだった。
──初日の出
■盆休みの日曜
寝苦しさに目がさめて時計を見たら4時。ムリに眠るよりもと起きあがり、歩きに出る。帰ってから昼寝をすればいいという、夏休みの気楽さだ。
未明に加えて霧が深い。足元の草の緑さえ見えず、五里霧中。視界10メートルくらいの道を注意深く歩く。雲の中を行く気分だ。
常磐高速道にさしかかったあたりで、いくらか霧が晴れる。道路を照らすオレンジ色の明かりが、にじんで点々とつづく。まるで童話の世界のようだ。
近づくと、気のせいか、いつもと車の流れがちがう。流通業の配送車や長距離トラックなど、角型の大きな車の上部ばかりがひっきりなしに走っている。盆休み終わりの日曜日、消費生活の再開というところか。それにしても、高速道路は眠らない!
土手の数カ所に盆送りの供え物を見かける。とうもろこし3本とほうずきなど、近くのお宅で供えたのだろう。あたりに古い供養碑があるから、昔、気の毒な事故があったのかもしれない。土手の下に暮らす人々の敬虔な心情を思う。
犬走りに沿って、刈り草を焼いた黒い点と線がつづいている。明るみ始めた畑にはもう人影が見える。用もなく歩くわが身が、ちょっとうしろめたい。
「朝飯前」の一歩き、2時間で12キロ。
──日の出
■海へ
わたしのウォーキングの起点は〈海から29㎞〉の地点である。土手のコースに出るたびに、右へ行くか左にするか一瞬、迷うのだが、たいていはお気に入りの右つまり川上へ向かう。しかし、いつも〈海から29㎞〉の標識が気になっていて、いつか左へ下って海まで行きたいと思っていた。
ウォーキングに自信がついたころを見計らい、ベストコンディションの日にそれを実現することになった。用意周到に飲み物の他、りんご・バナナ・チョコレートなどカロリーを補給する食品を携行した。
11月の朝、好天。暑からず寒からず。陽射しが強くなるときびしいので、早めの6時半に出発。
はじめの10キロは、かねてなじみのコースで何ということもなし。古ヶ崎のコスモス原で少し道草して、松戸を通り過ぎる。
新葛飾橋を越えると河川敷は松戸カントリークラブで、数組がプレーをしている。いつもながら、ゴルフというのはちまちました遊びだと思う。
〈矢切りの渡し〉にさしかかる。ここに「川の一里塚」の由来を記した案内板がある。そばに太田道灌の「水五則」という石碑がある。味わいのあるいいことばが並んでいるのだが、なぜ太田道灌なのか釈然としなかった。特筆すべきは、土手の下に公衆電話が見えたこと。わたしの知るかぎり、このコース沿い唯一の電話だ。
「矢切りいいのお、わたあしいい」という、細川たかしの名調子が頭の後ろにひびいてくる気がする。と、伊藤左千夫の『野菊の墓』を思い出す。あれに熱くなって、そのころできた木下恵介監督の映画を何をおいてもとばかり見に行ったのは中学生のときだった。(何という落差!)
ささやかな茂みに、渡し場を示す素朴なのぼりが見える。ここを渡れば柴又・帝釈天だ。のどかな土手を歩く寅さんを思い描く。
──矢切りの渡し
やがて土手がつきた所で迂回すると、頭上の森は桜の名所で有名な里見公園だ。この辺りから国府台にかけての景観は、上流の田園風景とちがってしょうしゃで明るい。
総武線の線路を過ぎる〈海から13㎞〉で、市川市に入る。近くの中学校の体育の時間か、大勢の若者が走っている。
行徳橋を越えると〈江戸川放水路〉となって、光景はさらに変わる。河口らしく流れがなく、川というよりも海の風情だ。もうはっきりした歩道はなく、低い護岸のへりを歩いていく。
これより先には行けないという地点に到着したのが12時。あたりは大企業の工場地帯で、前方を貨物船が行き来している。行徳橋で分かれるもう一方の江戸川を行けば行き着いたはずの、東京ディズニーランドが西方に遠く見えた。
原木中山まで出て電車で帰る。この日のウォーキング距離は約30キロだった。
──運河土手の桜
■利根運河を歩く
5時半出発。ひと月も前ならまだ暗かったが、すでに十分に明るい。このところ雨がつづいたので、江戸川の水量は平均時以上にある。重い雲がたれ込めて強風が吹く中、小1時間はいつものコースを歩く。
合流ポイントから、東にのびる利根運河の土手を行く。かつて何度かとおった道だが、この運河の幅が意外に広く感じられた。水は川底に低く流れているだけだが、堤防は厚く対岸までの距離は7、80メートルくらいか。
土手上の道路は幅4メートルほどで、江戸川の〈自転車・歩行者専用〉道よりもだいぶ広い。ここにも同じように歩く人が多いが、すれ違う相手との距離があるぶん、挨拶をしなくても不自然ではない。反面、自動車と共存の道路だから、いつも車を気にしないで歩いている当方はそのたびにハッとさせられる。
ビジターコースなので、きょろきょろと見渡しながら歩く。ちょっと寒いが、もう春は始まっている。天高くヒバリの声。道ばたにはオオイヌノフグリの小さなコバルトブルーが点在し、ホトケノザやヒメオドリコソウの紅紫色やイヌナズナの黄色が目につく。春の花はもうすぐ咲きそろう。やわらかそうなヨモギが伸びている。餌づけをしているらしく、水辺にはカモ、アヒルなどの水鳥が多い。
みそ工場の情緒ある蔵を過ぎると、やがて桜並木に至る。ちょうどよさそうな樹齢の木が対岸にも並んでいるから、花どきにはさぞにぎわうだろう。川辺の公園には、この運河工事を指導したオランダ人技師ムルデルの碑がある。
東武線の運河駅にさしかかると、日曜日の朝だというのに理科大方面に向かう人影が多い。見ると年輩の女性ばかりなので、近くに宗教団体があることに思い当たる。しばらくして桜並木としゃれた家並みがつきると、にわかに荒涼とした景色になる。歩行者・サイクリング用道路を整備中で、現状では歩くのにちょっと苦労する。でこぼこ道を、利根川をめざして急ぐ。
江戸川から分かれて8キロ。初めて見る利根川があらわれる。さすがに江戸川の兄貴分らしく川幅広く、とうとうたる水量だ。鬼怒川や渡良瀬川の流れを集めた流れだと思うと、心ときめくものがある。川下を遠望すると、銚子の海から遡ってくる船が見えそうな気がする。ここに立つと運河掘削の明治から舟運盛んな江戸時代へと思いがとぶ。
時雨もようの雨にみまわれながら、対岸沿いを歩いて帰路につく。この日の歩行距離は約28キロ。名残のウメ、咲き出したコブシ、ハクモクレンなどを近くに見るいいウォーキングだった。
──運河公園の桜並木
■年末年始漫歩
大晦日、元旦、2日と連日歩いたことがある。
97年の大晦日、朝6時に家を出る。まだ暗いが、荒れ模様の雨が降った前日とはうって変わった晴天を期待させる空だ。
不況の年を締めくくる築地市場やアメ横の活況を、ラジオで聞きながら歩く。7時近くなって昇り始めた太陽は、ふだんよりも大きく輝かしく見えた。人々がありがたがる初日の出に対して、大晦日の日の出はなんと呼ぶのだろうか。
富士山もすっきりと見えていた。東京が休暇にはいって上空が澄んでいるからか、前日の低気圧がスモッグを吹き飛ばしたからだろうか。
多事多難だった1年がうそのような、おだやかな年末である。対岸のゴルフ場には幾組も出て、球を打つ軽い音が聞こえてくる。
(のんきなやつもいるものだ)
しかし、買い物やお節料理づくりに奮闘する妻を思えば、こちらも似たようなものか。いや、気がつけば、行き交う顔ぶれもいつもと変わらない。のんき人間はけっこう多いようだ。のんびりムードは、曜日の関係ですでに4日間の休日を持った人が多かったせいかもしれない。
*
98年元旦は天気予報が大はずれ。朝からあつい雲が広がって、関東各地で初日の出は見られず。
例年ならそのために夜明け前から土手に集まる人々もなし。新年らしいようすはなにもなく、いつもと変わらないペースで2時間あまり歩く。
家に帰ってからが正月で、雑煮のあと、ごろごろと過ごす。NHKのニュースでは銚子で撮映したという、少し雲がかかった初日の出を大事そうにくり返し放映していた。わたしは前日のうちに、みごとな「大晦日の日の出」をしっかり見ておいたから、ちょっと優越感にひたる。
*
翌2日は一変して快晴。未明からそうとわかる紅紺色の空が、輝かしい日の出とともに澄んだ青空に変わった。
前日のうめあわせのつもりか、富士山も朝日を受ける前から淡紅色をおびて白く浮かび上がっていた。しかし、もはや日の出にも富士にも〈初〉はつかない。土手にそれを目当ての人影はなく、歩き屋さん、犬の散歩といった常連ばかりだ。
皮肉なものである。たしかに太陽はタイミングをちょっと間違えた。だからといって、人間からこうまで落差のある扱いを受けてはさぞ不本意だろう。
この3日間でわたしは、人間の勝手さとその行動のおかしさを実感した。そして、あらためて土手を歩く人々の眼福を思った。
──主水新田の釣り堀
■関宿へ
陽気はよし、連休。かねてから期するところあり、遠出の日とする。目的地は江戸川の起点である上流の関宿。
片道6時間と見て、握り飯、予備シューズ、バナナ、菓子などいつもと違う準備万端。軽く朝食もすませ、途中トイレがないはずなので体調も整えて余裕の出発は6時半。
歩き始めてまもなく、スピードが上がらないことに気づいた。リュックサックが妙に重く、肩にこたえるのだ。いつもの折り返し点を通過したところで5分遅れ、あわよくば「42キロを6時間で」の目標も同時達成という野望もこの時点でくずれ、先が思いやられる遠足となった。
考えてみればやや睡眠不足でもある。気温が高く、薄いジャンパーを脱いでTシャツになる。やがて朝ぐもりの空から日がさしてくると、ますますきつい。大きな麦わら帽子を持ってくるべきだった、もっと荷物を少なくするべきだったなどと思いながら歩く。
(いや、オリンピックじゃないのだから、ベストの条件でなくてもかまわない。タイムの記録は別の機会に軽装で挑めばいい。昔の人だって握り飯と多少の荷物くらい持っていたはずだ。これくらいのハンデでへこたれては、いくら歩けてもものの役に立たないぞ。なにかの非常時に、いきなりどれだけ歩けるかというテストになるさ。それにしても、歩きが重い。いっそ引き返そうか。帰って野茂の試合を見ようか。いやいや、子どもたちだって今日は働いているんだ、そうはいかない……)
──運河沿いのみそ工場
15キロも行ったあたりで、ちょっとボーっとして、まとまりのない考えが堂々めぐり。そのとき、怒鳴り声がした。見ると河川敷のちびっ子野球で、コーチが気合いを入れているのだった。ありふれた光景だが(子どもに声を荒げるおとなは嫌いだ)と思った。それからもひたすら5キロ標識を目当てに歩きつづけた。
この日は春というより初夏の陽気だった。土手には緑の草がのびて、タンポポの白くなった球がみごとにつづいていた。それを分けへだてるような赤茶色はスカンポ、点々と赤紫はカラスノエンドウ、アカツメクサ、アザミなど。菜の花の半月前とは様変わりの土手だった。
〈みどりの日〉とはよくも言ったり。遠景近景の緑はまさに万緑、その多彩微妙な色合いを形容する言葉の不足をしみじみと感じた。
土手に上ったときから、一日じゅうヒバリとウグイスその他さまざまな小鳥たちがわたしの遠足を応援してくれた。
東武野田線を越え、金野井橋を過ぎると、コースも距離も未経験の領域に入る。きついが、とにかく海から50キロ地点まではとがんばった。後日、〈42キロ・7時間〉に挑戦するときの折り返し点だからだ。その少し手前の河川敷に小さな飛行場があった。まだ11時だが朝食が早かったのでここで休憩、弁当にした。
──田植えも済んで
シューズを脱ぎ、土手に足を投げ出して、日除けにジャンパーをかぶる。見ると10分おきくらいに小型飛行機が飛び立ち、そのうしろにワイヤーで牽引されたグライダーがつづく。飛行機は上空で接続をはずして、軽やかに戻ってくる。やがて音もなくグライダーが現れ、しばらく回遊した後、草原に胴体着陸する。ちょっと遊園地の何かみたいだが、なかなか気分よさそうな遊びだ。
ウーロン茶を飲み、バナナと菓子を食べ、シューズを履きかえて出発。荷物が軽くなって、いくらか元気を取り戻した感じだ。
宝珠花橋を越えるとあと10キロ、何とかいけそうに思う。対岸は庄和町で、連休には名物の大凧あげがあるとの案内が目についた。牧場があって、そこはかとない匂いがなつかしさを誘う。川の流れは意外なくらいおだやかだ。
1時過ぎ、ようやく関宿に到着。なにはともあれ、缶ジュースを買って一息つく。
博物館になっている関宿城に入る。ここは千葉県の西北端で、江戸川が利根川から分かれる地点だ。二つの川を背負った城は江戸時代には軍事と舟運の要衝だった。館内はそうした歴史資料と水防関係の展示物が多い。
スタート地点から31キロ、海からは60キロ。わたしは天守閣の展望台に立ち、やかましいおばさんグループのわきで、達成感に浸った。
帰りはバスのつもりだったが、もったいないのでせめて途中までと歩き出した。もったいないのはバス代ではなく、せっかくの歩くチャンスを生かさなくてはということだ。
元気が戻ったし、日が傾いて風がさわやかだった。あらためて、あたりの光景を楽しむ。水を引き、苗を植えたばかりの水田。そこを渡ってくる強い風が、ジャンボ鯉のぼりをはためかせている。20機ほどのグライダーは、ていねいにシートで覆われていた。
汗が引くと顔から首筋にかけて塩が吹き出ていた。それと襟首全体が海水浴の後のように日焼けしてひりひりしていた。
日暮れ前に川間駅までたどり着く。電車で初石まで行き、そこからは約3キロを仕上げのウォーキング。帰宅は7時半だった。
この日の歩行距離は約50キロ。ほぼ10時間は歩いていたことになる。時間はかかったが、とにかくこれだけやれたのは収穫だ。もう少しうまくやれば、日の出から日没までに60キロを歩けるという〈足ごたえ〉があり、昔の人に恥じない気分になった。
──???
大晦日恒例の「紅白歌合戦」がつまらなくて終わりまで見ず。年々、テレビに興が乗らなくなるのは、やはりトシのせいか。いつもの休日前夜同様、朝の歩きを期して早寝。
翌朝。起き抜けに、そっと家を出る。
ねぼけまなこで土手に近づくと、すでに大勢の影があった。(土左右衛門?)と一瞬思ったが、そうではなかった。5時40分と思って出かけたのだが、じつは6時40分で、すでに初日の出を待つ人々が集まっていたのだ。
いつになくにぎやかな人々。若者のグループあり、カップルもいる。「初参加の方……」と点呼をしているのは、町内のご来光詣での団体らしい。もう日の出間近で、ざわついている。それを後目に歩き出すとすぐ、いつものように雑木林の向こうからまばゆい初日が昇り始める。6時55分。
人影が少なくなったあたりで、家族連れと行き会う。太陽に向かって、親子で「おめでとう!」と3、4回叫んでいた。その声が森や対岸の堤にこだまして、感動的な賀詞だった。
97年の夜明けは冷え込みもなく、気温5〜6度。手袋は必要だが耳をおおうほどでもない、おだやかな元旦だ。ラジオを聞きながら歩く。
30分ほどして九州も日の出を迎えたらしい。熊本の「日本一長い階段」を昇った人々にレポーターが聞いている。
──毎年いらっしゃるのですか?
ああ、ここは何度のぼっても楽しいよ。
──なにが楽しいんですか?
そりゃ、歩くことだね。
そんなやりとりの後、そろって「バンザイ!」とやっていた。これには「?」。まだ「おはよう」のほうがましに思えた。
渇水期の川面に、濃いもやが立っている。日が昇るとさらにもやって、モネの「日の出」みたいな情景だ。
帰路、ハトをかごに入れた人と出会う。ラジオはP・マッカートニーがサーの称号を受けることになったと伝えていた。
この日は14キロをきっちり2時間20分。いつもと変わらないようで、いつもと違う歩きだった。
──初日の出
■盆休みの日曜
寝苦しさに目がさめて時計を見たら4時。ムリに眠るよりもと起きあがり、歩きに出る。帰ってから昼寝をすればいいという、夏休みの気楽さだ。
未明に加えて霧が深い。足元の草の緑さえ見えず、五里霧中。視界10メートルくらいの道を注意深く歩く。雲の中を行く気分だ。
常磐高速道にさしかかったあたりで、いくらか霧が晴れる。道路を照らすオレンジ色の明かりが、にじんで点々とつづく。まるで童話の世界のようだ。
近づくと、気のせいか、いつもと車の流れがちがう。流通業の配送車や長距離トラックなど、角型の大きな車の上部ばかりがひっきりなしに走っている。盆休み終わりの日曜日、消費生活の再開というところか。それにしても、高速道路は眠らない!
土手の数カ所に盆送りの供え物を見かける。とうもろこし3本とほうずきなど、近くのお宅で供えたのだろう。あたりに古い供養碑があるから、昔、気の毒な事故があったのかもしれない。土手の下に暮らす人々の敬虔な心情を思う。
犬走りに沿って、刈り草を焼いた黒い点と線がつづいている。明るみ始めた畑にはもう人影が見える。用もなく歩くわが身が、ちょっとうしろめたい。
「朝飯前」の一歩き、2時間で12キロ。
──日の出
■海へ
わたしのウォーキングの起点は〈海から29㎞〉の地点である。土手のコースに出るたびに、右へ行くか左にするか一瞬、迷うのだが、たいていはお気に入りの右つまり川上へ向かう。しかし、いつも〈海から29㎞〉の標識が気になっていて、いつか左へ下って海まで行きたいと思っていた。
ウォーキングに自信がついたころを見計らい、ベストコンディションの日にそれを実現することになった。用意周到に飲み物の他、りんご・バナナ・チョコレートなどカロリーを補給する食品を携行した。
11月の朝、好天。暑からず寒からず。陽射しが強くなるときびしいので、早めの6時半に出発。
はじめの10キロは、かねてなじみのコースで何ということもなし。古ヶ崎のコスモス原で少し道草して、松戸を通り過ぎる。
新葛飾橋を越えると河川敷は松戸カントリークラブで、数組がプレーをしている。いつもながら、ゴルフというのはちまちました遊びだと思う。
〈矢切りの渡し〉にさしかかる。ここに「川の一里塚」の由来を記した案内板がある。そばに太田道灌の「水五則」という石碑がある。味わいのあるいいことばが並んでいるのだが、なぜ太田道灌なのか釈然としなかった。特筆すべきは、土手の下に公衆電話が見えたこと。わたしの知るかぎり、このコース沿い唯一の電話だ。
「矢切りいいのお、わたあしいい」という、細川たかしの名調子が頭の後ろにひびいてくる気がする。と、伊藤左千夫の『野菊の墓』を思い出す。あれに熱くなって、そのころできた木下恵介監督の映画を何をおいてもとばかり見に行ったのは中学生のときだった。(何という落差!)
ささやかな茂みに、渡し場を示す素朴なのぼりが見える。ここを渡れば柴又・帝釈天だ。のどかな土手を歩く寅さんを思い描く。
──矢切りの渡し
やがて土手がつきた所で迂回すると、頭上の森は桜の名所で有名な里見公園だ。この辺りから国府台にかけての景観は、上流の田園風景とちがってしょうしゃで明るい。
総武線の線路を過ぎる〈海から13㎞〉で、市川市に入る。近くの中学校の体育の時間か、大勢の若者が走っている。
行徳橋を越えると〈江戸川放水路〉となって、光景はさらに変わる。河口らしく流れがなく、川というよりも海の風情だ。もうはっきりした歩道はなく、低い護岸のへりを歩いていく。
これより先には行けないという地点に到着したのが12時。あたりは大企業の工場地帯で、前方を貨物船が行き来している。行徳橋で分かれるもう一方の江戸川を行けば行き着いたはずの、東京ディズニーランドが西方に遠く見えた。
原木中山まで出て電車で帰る。この日のウォーキング距離は約30キロだった。
──運河土手の桜
■利根運河を歩く
5時半出発。ひと月も前ならまだ暗かったが、すでに十分に明るい。このところ雨がつづいたので、江戸川の水量は平均時以上にある。重い雲がたれ込めて強風が吹く中、小1時間はいつものコースを歩く。
合流ポイントから、東にのびる利根運河の土手を行く。かつて何度かとおった道だが、この運河の幅が意外に広く感じられた。水は川底に低く流れているだけだが、堤防は厚く対岸までの距離は7、80メートルくらいか。
土手上の道路は幅4メートルほどで、江戸川の〈自転車・歩行者専用〉道よりもだいぶ広い。ここにも同じように歩く人が多いが、すれ違う相手との距離があるぶん、挨拶をしなくても不自然ではない。反面、自動車と共存の道路だから、いつも車を気にしないで歩いている当方はそのたびにハッとさせられる。
ビジターコースなので、きょろきょろと見渡しながら歩く。ちょっと寒いが、もう春は始まっている。天高くヒバリの声。道ばたにはオオイヌノフグリの小さなコバルトブルーが点在し、ホトケノザやヒメオドリコソウの紅紫色やイヌナズナの黄色が目につく。春の花はもうすぐ咲きそろう。やわらかそうなヨモギが伸びている。餌づけをしているらしく、水辺にはカモ、アヒルなどの水鳥が多い。
みそ工場の情緒ある蔵を過ぎると、やがて桜並木に至る。ちょうどよさそうな樹齢の木が対岸にも並んでいるから、花どきにはさぞにぎわうだろう。川辺の公園には、この運河工事を指導したオランダ人技師ムルデルの碑がある。
東武線の運河駅にさしかかると、日曜日の朝だというのに理科大方面に向かう人影が多い。見ると年輩の女性ばかりなので、近くに宗教団体があることに思い当たる。しばらくして桜並木としゃれた家並みがつきると、にわかに荒涼とした景色になる。歩行者・サイクリング用道路を整備中で、現状では歩くのにちょっと苦労する。でこぼこ道を、利根川をめざして急ぐ。
江戸川から分かれて8キロ。初めて見る利根川があらわれる。さすがに江戸川の兄貴分らしく川幅広く、とうとうたる水量だ。鬼怒川や渡良瀬川の流れを集めた流れだと思うと、心ときめくものがある。川下を遠望すると、銚子の海から遡ってくる船が見えそうな気がする。ここに立つと運河掘削の明治から舟運盛んな江戸時代へと思いがとぶ。
時雨もようの雨にみまわれながら、対岸沿いを歩いて帰路につく。この日の歩行距離は約28キロ。名残のウメ、咲き出したコブシ、ハクモクレンなどを近くに見るいいウォーキングだった。
──運河公園の桜並木
■年末年始漫歩
大晦日、元旦、2日と連日歩いたことがある。
97年の大晦日、朝6時に家を出る。まだ暗いが、荒れ模様の雨が降った前日とはうって変わった晴天を期待させる空だ。
不況の年を締めくくる築地市場やアメ横の活況を、ラジオで聞きながら歩く。7時近くなって昇り始めた太陽は、ふだんよりも大きく輝かしく見えた。人々がありがたがる初日の出に対して、大晦日の日の出はなんと呼ぶのだろうか。
富士山もすっきりと見えていた。東京が休暇にはいって上空が澄んでいるからか、前日の低気圧がスモッグを吹き飛ばしたからだろうか。
多事多難だった1年がうそのような、おだやかな年末である。対岸のゴルフ場には幾組も出て、球を打つ軽い音が聞こえてくる。
(のんきなやつもいるものだ)
しかし、買い物やお節料理づくりに奮闘する妻を思えば、こちらも似たようなものか。いや、気がつけば、行き交う顔ぶれもいつもと変わらない。のんき人間はけっこう多いようだ。のんびりムードは、曜日の関係ですでに4日間の休日を持った人が多かったせいかもしれない。
*
98年元旦は天気予報が大はずれ。朝からあつい雲が広がって、関東各地で初日の出は見られず。
例年ならそのために夜明け前から土手に集まる人々もなし。新年らしいようすはなにもなく、いつもと変わらないペースで2時間あまり歩く。
家に帰ってからが正月で、雑煮のあと、ごろごろと過ごす。NHKのニュースでは銚子で撮映したという、少し雲がかかった初日の出を大事そうにくり返し放映していた。わたしは前日のうちに、みごとな「大晦日の日の出」をしっかり見ておいたから、ちょっと優越感にひたる。
*
翌2日は一変して快晴。未明からそうとわかる紅紺色の空が、輝かしい日の出とともに澄んだ青空に変わった。
前日のうめあわせのつもりか、富士山も朝日を受ける前から淡紅色をおびて白く浮かび上がっていた。しかし、もはや日の出にも富士にも〈初〉はつかない。土手にそれを目当ての人影はなく、歩き屋さん、犬の散歩といった常連ばかりだ。
皮肉なものである。たしかに太陽はタイミングをちょっと間違えた。だからといって、人間からこうまで落差のある扱いを受けてはさぞ不本意だろう。
この3日間でわたしは、人間の勝手さとその行動のおかしさを実感した。そして、あらためて土手を歩く人々の眼福を思った。
──主水新田の釣り堀
■関宿へ
陽気はよし、連休。かねてから期するところあり、遠出の日とする。目的地は江戸川の起点である上流の関宿。
片道6時間と見て、握り飯、予備シューズ、バナナ、菓子などいつもと違う準備万端。軽く朝食もすませ、途中トイレがないはずなので体調も整えて余裕の出発は6時半。
歩き始めてまもなく、スピードが上がらないことに気づいた。リュックサックが妙に重く、肩にこたえるのだ。いつもの折り返し点を通過したところで5分遅れ、あわよくば「42キロを6時間で」の目標も同時達成という野望もこの時点でくずれ、先が思いやられる遠足となった。
考えてみればやや睡眠不足でもある。気温が高く、薄いジャンパーを脱いでTシャツになる。やがて朝ぐもりの空から日がさしてくると、ますますきつい。大きな麦わら帽子を持ってくるべきだった、もっと荷物を少なくするべきだったなどと思いながら歩く。
(いや、オリンピックじゃないのだから、ベストの条件でなくてもかまわない。タイムの記録は別の機会に軽装で挑めばいい。昔の人だって握り飯と多少の荷物くらい持っていたはずだ。これくらいのハンデでへこたれては、いくら歩けてもものの役に立たないぞ。なにかの非常時に、いきなりどれだけ歩けるかというテストになるさ。それにしても、歩きが重い。いっそ引き返そうか。帰って野茂の試合を見ようか。いやいや、子どもたちだって今日は働いているんだ、そうはいかない……)
──運河沿いのみそ工場
15キロも行ったあたりで、ちょっとボーっとして、まとまりのない考えが堂々めぐり。そのとき、怒鳴り声がした。見ると河川敷のちびっ子野球で、コーチが気合いを入れているのだった。ありふれた光景だが(子どもに声を荒げるおとなは嫌いだ)と思った。それからもひたすら5キロ標識を目当てに歩きつづけた。
この日は春というより初夏の陽気だった。土手には緑の草がのびて、タンポポの白くなった球がみごとにつづいていた。それを分けへだてるような赤茶色はスカンポ、点々と赤紫はカラスノエンドウ、アカツメクサ、アザミなど。菜の花の半月前とは様変わりの土手だった。
〈みどりの日〉とはよくも言ったり。遠景近景の緑はまさに万緑、その多彩微妙な色合いを形容する言葉の不足をしみじみと感じた。
土手に上ったときから、一日じゅうヒバリとウグイスその他さまざまな小鳥たちがわたしの遠足を応援してくれた。
東武野田線を越え、金野井橋を過ぎると、コースも距離も未経験の領域に入る。きついが、とにかく海から50キロ地点まではとがんばった。後日、〈42キロ・7時間〉に挑戦するときの折り返し点だからだ。その少し手前の河川敷に小さな飛行場があった。まだ11時だが朝食が早かったのでここで休憩、弁当にした。
──田植えも済んで
シューズを脱ぎ、土手に足を投げ出して、日除けにジャンパーをかぶる。見ると10分おきくらいに小型飛行機が飛び立ち、そのうしろにワイヤーで牽引されたグライダーがつづく。飛行機は上空で接続をはずして、軽やかに戻ってくる。やがて音もなくグライダーが現れ、しばらく回遊した後、草原に胴体着陸する。ちょっと遊園地の何かみたいだが、なかなか気分よさそうな遊びだ。
ウーロン茶を飲み、バナナと菓子を食べ、シューズを履きかえて出発。荷物が軽くなって、いくらか元気を取り戻した感じだ。
宝珠花橋を越えるとあと10キロ、何とかいけそうに思う。対岸は庄和町で、連休には名物の大凧あげがあるとの案内が目についた。牧場があって、そこはかとない匂いがなつかしさを誘う。川の流れは意外なくらいおだやかだ。
1時過ぎ、ようやく関宿に到着。なにはともあれ、缶ジュースを買って一息つく。
博物館になっている関宿城に入る。ここは千葉県の西北端で、江戸川が利根川から分かれる地点だ。二つの川を背負った城は江戸時代には軍事と舟運の要衝だった。館内はそうした歴史資料と水防関係の展示物が多い。
スタート地点から31キロ、海からは60キロ。わたしは天守閣の展望台に立ち、やかましいおばさんグループのわきで、達成感に浸った。
帰りはバスのつもりだったが、もったいないのでせめて途中までと歩き出した。もったいないのはバス代ではなく、せっかくの歩くチャンスを生かさなくてはということだ。
元気が戻ったし、日が傾いて風がさわやかだった。あらためて、あたりの光景を楽しむ。水を引き、苗を植えたばかりの水田。そこを渡ってくる強い風が、ジャンボ鯉のぼりをはためかせている。20機ほどのグライダーは、ていねいにシートで覆われていた。
汗が引くと顔から首筋にかけて塩が吹き出ていた。それと襟首全体が海水浴の後のように日焼けしてひりひりしていた。
日暮れ前に川間駅までたどり着く。電車で初石まで行き、そこからは約3キロを仕上げのウォーキング。帰宅は7時半だった。
この日の歩行距離は約50キロ。ほぼ10時間は歩いていたことになる。時間はかかったが、とにかくこれだけやれたのは収穫だ。もう少しうまくやれば、日の出から日没までに60キロを歩けるという〈足ごたえ〉があり、昔の人に恥じない気分になった。
──???
by knaito57
| 2005-05-18 11:09
| 10 休み時間
|
Trackback
|
Comments(1)
Commented
by
antsuan at 2005-05-21 11:16
なかなかいっぺんで読み切れないのですが・・・、「野菊の墓」は三十代後半に先に映画を見ましてそれから本を読みました。原作に忠実な、情景といい俳優といい、心打つものがありました。こういう映画を学校で上映すればいいのになぁといつも思ってしまいます。
0