2006年 04月 19日
■俺も斬る! ぞ |
当ブログにはカテゴリ“自然”が多く、内容も隠者の独り言みたいでインパクトに欠ける。たまには国を憂い権力に立ち向かい、政治もマスコミも両断(重箱の隅でさんやあんつぁんさんみたいに)するごとき大立ち回りをやってみたいものだ、と投稿するたびに思う。しかし、土手は平和で、バカ殿や悪代官がいない。すなわち不愉快な人間がいないから腹が立つこともない。外出すれば一両日は不機嫌の虫がおさまらない偏屈居士の私が、土手では円満な好々爺そのもの。よって毎度「よしなしごと」を綴っている。
ところが先日、ついに斬りかかるべき相手に出会った。それは土手のコースに新たに登場した「海から0.25㎞」の標識で、わが輩は風車に立ち向かうドン・キホーテのように勇み立ったものだ。
──おのれ、小癪な不要物。斬り捨ててくれる!
これぞ、小さな親切・大きなお世話。1本2000円としても合計すれば相当な金額だし、もしかしたら談合や随意契約で案外に高額な施工費になっているかも知れぬ。市長が代わって以来、ずいぶんとせこい財政引き締めをやっている市にしては、何たるむだ遣い……と、施設管理課かなんかの担当者を思い浮かべて、ひとり息巻いた。(われながら、小せえなあ。グスン)
土手のコースには従来ある0.5㎞ごとの標識で十分で、こんなに細かな刻みは無用なのだ。たとえるなら1000円札(1㎞標識)と500円玉(0.5㎞標識)で間に合っているところへ新たに「250円」硬貨が登場したようなもので、煩わしく、じゃまでさえある。
土手歩きの最大の効用は、精神の開放にある。私が万歩計や腕時計を持たないのもフリーな気分でいたいからなのに、ちょっと歩くたびに0.25㎞の標識が目についてはうっとうしく、ちまちました気分になる。
余談ながら、ケータイを携帯しないのは単にそういうモノを持っていないからだが、高齢の親を持つ身としては緊急連絡用にウォーキングのときにこそ携行すべきかという気持もなくはない。けれども、いざという場合でも最長2〜3時間すれば帰宅するのだし、それを待てないときは家人が自転車を駆って呼びに来るだろう。近ごろはたまの外出時に乗り物の時刻表を無視するようになったのも、引退してせっかく気ままをできる境遇になったのだから成り行きでいきたい、という思いからだ。
つまり何かに“管理”ないし“コントロール”されることなく、なるべく自由人でいたいのだ(ポイントとかカードとかパスワード嫌いも、世俗的な煩瑣なものから分離したいという同じ論理)。「0.25㎞」標識は、それをじゃまする。役所の木っ端役人(ああ、都知事みたいでいい気分)は、広々した土手を歩く人間の生理と心理を理解していない。
ちょっと勢いづいたから、返す刀でもう一丁。
長年の土手歩きで私が目にした最も不快で腹が立つ光景は、まき散らされた犬の毛だ。飼い主が散歩ついでに毛をすき取り、その毛玉を放置して去る。コース上にフンを残したままというケースもなくはないが、これは住宅地でもよくあることだから土手に来る飼い主の品性がとくべつ劣るというわけでもない。
しかし、違う場所で何度か目撃したのだから複数犯であろう。犬の毛など、環境的には石油化学製品よりも害が少ないかも知れないが、私はそのおぞましさ、生理的嫌悪感にぞっとする。飼い主に公徳心・美意識など基本的なものが欠如した人格を感じるのだ。
ところが先日、ついに斬りかかるべき相手に出会った。それは土手のコースに新たに登場した「海から0.25㎞」の標識で、わが輩は風車に立ち向かうドン・キホーテのように勇み立ったものだ。
──おのれ、小癪な不要物。斬り捨ててくれる!
これぞ、小さな親切・大きなお世話。1本2000円としても合計すれば相当な金額だし、もしかしたら談合や随意契約で案外に高額な施工費になっているかも知れぬ。市長が代わって以来、ずいぶんとせこい財政引き締めをやっている市にしては、何たるむだ遣い……と、施設管理課かなんかの担当者を思い浮かべて、ひとり息巻いた。(われながら、小せえなあ。グスン)
土手のコースには従来ある0.5㎞ごとの標識で十分で、こんなに細かな刻みは無用なのだ。たとえるなら1000円札(1㎞標識)と500円玉(0.5㎞標識)で間に合っているところへ新たに「250円」硬貨が登場したようなもので、煩わしく、じゃまでさえある。
土手歩きの最大の効用は、精神の開放にある。私が万歩計や腕時計を持たないのもフリーな気分でいたいからなのに、ちょっと歩くたびに0.25㎞の標識が目についてはうっとうしく、ちまちました気分になる。
余談ながら、ケータイを携帯しないのは単にそういうモノを持っていないからだが、高齢の親を持つ身としては緊急連絡用にウォーキングのときにこそ携行すべきかという気持もなくはない。けれども、いざという場合でも最長2〜3時間すれば帰宅するのだし、それを待てないときは家人が自転車を駆って呼びに来るだろう。近ごろはたまの外出時に乗り物の時刻表を無視するようになったのも、引退してせっかく気ままをできる境遇になったのだから成り行きでいきたい、という思いからだ。
つまり何かに“管理”ないし“コントロール”されることなく、なるべく自由人でいたいのだ(ポイントとかカードとかパスワード嫌いも、世俗的な煩瑣なものから分離したいという同じ論理)。「0.25㎞」標識は、それをじゃまする。役所の木っ端役人(ああ、都知事みたいでいい気分)は、広々した土手を歩く人間の生理と心理を理解していない。
ちょっと勢いづいたから、返す刀でもう一丁。
長年の土手歩きで私が目にした最も不快で腹が立つ光景は、まき散らされた犬の毛だ。飼い主が散歩ついでに毛をすき取り、その毛玉を放置して去る。コース上にフンを残したままというケースもなくはないが、これは住宅地でもよくあることだから土手に来る飼い主の品性がとくべつ劣るというわけでもない。
しかし、違う場所で何度か目撃したのだから複数犯であろう。犬の毛など、環境的には石油化学製品よりも害が少ないかも知れないが、私はそのおぞましさ、生理的嫌悪感にぞっとする。飼い主に公徳心・美意識など基本的なものが欠如した人格を感じるのだ。
by knaito57
| 2006-04-19 18:21
| ■ときどき日記
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Comments(4)
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antsuan at 2006-04-20 09:19
車を運転していても余計なお世話の標識がいっぱいあって、かえって惑わされて危険です。特に国語力を疑ってしまう表現のものは余計に精神衛生上よろしくありません。是非バッサリと切り落として下さい。
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saheizi-inokori at 2006-04-20 11:21
街中の公園がしょっちゅう工事中。どんどん人工的になっていく。工事期間は子供の遊び場がなくなる。要するに予算消化と業界対応ですね。とんでもない山の中の公園がきれいに整備されていてびっくりしました。公園の周りは自然が一杯、どこでも遊べるところなのに。トイレくらいは許せるけれど。予算消化のための企画書に判子を押す役人は現地を見ていないのでしょう。
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knaito57 at 2006-04-20 18:30
あ、そうですか、antsuanさん。運転をしないので気づきませんでしたが、標識の過剰は想像できます。口うるさい親の小言は逆効果ですよね。
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knaito57 at 2006-04-20 18:31
saheiziさん 土手は疲れ気味の大人にとってワンダーランドなのです。子どもたちも本当はテーマパークより川や原っぱのほうが好きかもしれない。育むものが多いのは間違いなく後者でしょうが、現実問題としては望めませんねえ。