2006年 06月 19日
■花を育てる人 |
野草探訪も楽しいが、土手から目を転ずると随所に園芸種の草花を見かけることも多い。それは人の手をかけた草花で、丹精した人の人柄が感じられてこれまた楽しい。
わたしが歩く区域の一部には「歩行者・自転車専用」路の下に、バイパスのような道が並行している。その中央分離帯には、当局によってツツジなどの植栽が施されている。それが立ち枯れて空き地となった細長い部分に、ささやかな花壇がとびとびにある。それらはたいてい近所の有志やボランティアによるものなのだが、小さなシャベルで共同作業をしている夫婦を見かけたこともある。いずれにしてもここは草花栽培には不便な場所で、器具の持参はもちろん、水やりや雑草取りも手軽にはできない。
そんな花壇の大規模なものが松戸古ヶ崎コスモスの大群落や西深井コスモスのはなしのコスモス原だ。これだけの大仕事となると土地の利用権などもからんで話がややこしくなるが、基本はやはり草花を愛し育てるやさしさと、他者への心づくしだろう。こういう草花に野草とはまた異なった心なごむものを感じるのは、そのゆえなのだと思う。
そう、大切なのは草花を愛し育てる心なのだ。
近ごろ新興住宅では、どのお宅も家まわりをカラフルな草花で飾っている。春先などは、公園よりも住宅街のほうが花一杯の感さえある。こういう光景が一般化したのは20〜30年くらい前からのように思うが、それだけ暮らしが豊かに、心にゆとりが生じたということだろう。
けれども、せっかく色とりどりな花で飾られた門扉の周辺に、あまり魅せられないのはなぜだろう。ホームセンターから買ってきた花を、ただ並べただけだからか。花を育て、愛で、楽しむ心、あるいは道行く人に楽しんでもらいたいという心づかいよりも、まるで競い合うごとくこれ見よがしに飾り立ているからだろうか。
本当の花好きは、塀の中にたくさん抱え込んで悦にいるのでもなく、また外に向けて見せびらかすようなこともしない。花を愛する人柄と、その楽しみを他者に分かつ心づかいがおのずから感じられない花園は、豊かさよりもむしろ貧寒に近いといっては意地悪い見方だろうか。
──一日の仕事をおえた夜、100粒のドングリを選んで袋に入れる。翌日、荒野に棒で穴をあけてそれを一つずつていねいにうめていく。毎日、毎日……。何年かたつと何もなかった土地に樫の木の森ができて、小川が流れ小鳥が鳴く!
『木を植えた人』(ジャン・ジオノ)の羊飼いは、戦で荒廃した土地に緑を蘇らせた“環境派”といえる。いまここで話題にしているのは“鑑賞花”についてなのだが、共通するのは「育てるやさしさ」と「他者への心づかい」だ。
土手の人々には、それが身についているように思う。だからたいへんに花づくりがじょうずだ。路傍や畑の隅、ちょっとした空き地に見かける季節感のあるナデシコ、グラジオラス、カンナなどはもちろん仏壇に供えたり、朝市に出したりもするだろう。だが、色あせた小菊に古い傘をさしかけて霜よけ越年させるやさしさを見ると、楽しんで花づくりをする人の暮らしや人柄が彷彿してうれしくなる。
何年も前、土手にえんえんと彼岸花を植えた人がある。もしかしたら、水の事故があったお宅で供養のために植えたのかもしれないが、そうして育まれた花は今、土手を行く多くの人の目を楽しませてくれている。これこそ本当の花好きであり真の功徳、と、いつもながら思いは飛躍する。土手歩きの愉しみはけっこう奥が深い。
わたしが歩く区域の一部には「歩行者・自転車専用」路の下に、バイパスのような道が並行している。その中央分離帯には、当局によってツツジなどの植栽が施されている。それが立ち枯れて空き地となった細長い部分に、ささやかな花壇がとびとびにある。それらはたいてい近所の有志やボランティアによるものなのだが、小さなシャベルで共同作業をしている夫婦を見かけたこともある。いずれにしてもここは草花栽培には不便な場所で、器具の持参はもちろん、水やりや雑草取りも手軽にはできない。
そんな花壇の大規模なものが松戸古ヶ崎コスモスの大群落や西深井コスモスのはなしのコスモス原だ。これだけの大仕事となると土地の利用権などもからんで話がややこしくなるが、基本はやはり草花を愛し育てるやさしさと、他者への心づくしだろう。こういう草花に野草とはまた異なった心なごむものを感じるのは、そのゆえなのだと思う。
そう、大切なのは草花を愛し育てる心なのだ。
近ごろ新興住宅では、どのお宅も家まわりをカラフルな草花で飾っている。春先などは、公園よりも住宅街のほうが花一杯の感さえある。こういう光景が一般化したのは20〜30年くらい前からのように思うが、それだけ暮らしが豊かに、心にゆとりが生じたということだろう。
けれども、せっかく色とりどりな花で飾られた門扉の周辺に、あまり魅せられないのはなぜだろう。ホームセンターから買ってきた花を、ただ並べただけだからか。花を育て、愛で、楽しむ心、あるいは道行く人に楽しんでもらいたいという心づかいよりも、まるで競い合うごとくこれ見よがしに飾り立ているからだろうか。
本当の花好きは、塀の中にたくさん抱え込んで悦にいるのでもなく、また外に向けて見せびらかすようなこともしない。花を愛する人柄と、その楽しみを他者に分かつ心づかいがおのずから感じられない花園は、豊かさよりもむしろ貧寒に近いといっては意地悪い見方だろうか。
──一日の仕事をおえた夜、100粒のドングリを選んで袋に入れる。翌日、荒野に棒で穴をあけてそれを一つずつていねいにうめていく。毎日、毎日……。何年かたつと何もなかった土地に樫の木の森ができて、小川が流れ小鳥が鳴く!
『木を植えた人』(ジャン・ジオノ)の羊飼いは、戦で荒廃した土地に緑を蘇らせた“環境派”といえる。いまここで話題にしているのは“鑑賞花”についてなのだが、共通するのは「育てるやさしさ」と「他者への心づかい」だ。
土手の人々には、それが身についているように思う。だからたいへんに花づくりがじょうずだ。路傍や畑の隅、ちょっとした空き地に見かける季節感のあるナデシコ、グラジオラス、カンナなどはもちろん仏壇に供えたり、朝市に出したりもするだろう。だが、色あせた小菊に古い傘をさしかけて霜よけ越年させるやさしさを見ると、楽しんで花づくりをする人の暮らしや人柄が彷彿してうれしくなる。
何年も前、土手にえんえんと彼岸花を植えた人がある。もしかしたら、水の事故があったお宅で供養のために植えたのかもしれないが、そうして育まれた花は今、土手を行く多くの人の目を楽しませてくれている。これこそ本当の花好きであり真の功徳、と、いつもながら思いは飛躍する。土手歩きの愉しみはけっこう奥が深い。
by knaito57
| 2006-06-19 14:08
| ■ときどき日記
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Comments(2)
Commented
by
saheizi-inokori at 2006-06-20 10:58
矢車草、コスモス、優しい花ですね。群生させてもちっとも重くならない。幼い頃身近に見ていた草花がこんなに美しいものだったかと思う年になりました。
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knaito57 at 2006-06-20 22:01
saheiziさん、東北の旅ではごちそうだけでなく、いろいろ懐かしい花に出会いましたね。外来や新種のさまざまな花に恵まれた現代人は、はたして豊かでハッピーなのか──花ばかりでなく、ふとそんな思いにとらわれます。