2005年 05月 17日
9 社会の時間 |
■浮世離れした細く長い〈社会〉
土手の道はカネ・クルマ・デンワに無縁という意味で、浮世離れしているともいえる。江戸川起点の関宿城趾公園を別にすれば、終点の東京湾河口まで約60キロの間には、1台の電話もお金を使う場所もない。
わたしが歩く流域の左岸でみれば、海から21キロ地点に公衆トイレがあるのみ。このご時世に、電話や自動車から隔離されて財布も不要とは、まことに得難い空間ではないか。
この浮世離れした自然環境で何時間も過ごすには、単身ヨットで海に乗り出す人やマラソンランナーと同じで、体調のチェックと事前の準備が欠かせない。そういう自己管理の習慣が身についていない人は、はじめから失格者といえるだろう。
「広い世の中」といわれるように、社会は広いものと決まっている。たしかに土手のコースに出れば視界は360度、せせこましい日常がアホらしく思われるほどの広さだ。ところが、ウォーキング・デイにおけるわたしの〈社会〉というのは、広いどころかすごく狭い。ただし、長い。具体的にいえば、幅が2・3メートルの長さ20キロ、つまりひどく細長いのだ。
また「つらい浮世」というように、この世はつらくきびしいものと決まっているが、この細長い社会にいるかぎり、わたしはつらさもきびしさも感じない。サラリーマン・ライフの中で毎日うんざりするくらい感じる、いらだたしさや空しさもまったくないのだ。
たかとおは 山すそのまち 古きまち
行きかう子らの うつくしき町 (花袋)
健脚で知られた田山花袋は、信州高遠の町をこう詠った。そこはわたしの祖先の足跡が残る土地ということもあって、この町を歩くと本当に人も景色もみな美しく善意に充ちているように感じるのだが、土手の〈細長い社会〉は、わたしを同じような気分にさせる。日ごろ気むずかしい顔して口も重い人間が、別人のように快活にふるまえるのはふしぎなことだ。
──政夫&民子?

人の一生がしばしば川の流れにたとえられるように、この〈細長い社会〉も人生によく似ている。ここでは数こそ多くないが、さまざまな人に出会う。常連がいる一方で、一度すれ違っただけという人もいる。追い抜いたり、抜かれたりもする。途中、前方にこつ然と人影が現れたり、ふっと消えてしまう人もある。(これは近くに住む人が気軽に土手に出てひと歩き、というケースなのだが)。
そして江戸川を悠久の時間の流れに見立てれば、その河口から30〜40キロ地点をちょこちょこと歩いているわたしは、歴史のほんの一時期を生きる存在のようなものだ。そう考えると、行き交い、目前につかの間登場する人々にも他生の縁を感じるのである。土手の仲間というべき人々をご紹介しよう。
──土手の雪だるま

■土手コースの三派
土手の人種は老若男女さまざま、けっこう多種多彩である。
まず、同好の士であるところの歩く人々。というのは漫然たる散歩ではなく、一応トレーニングのいでたちをして目的的で、それなりに気を入れて歩く人たちのことだ。
この仲間には中年やお年寄りが多い。わたしの歩くのが休日のせいか、日ごろ運動不足のサラリーマンや管理職ふうが目立つ。こういう人に出会うと一週間の会社勤めが想像されて、挨拶にも「がんばってますな」という気持ちがこもる。
近在の農家の主婦やかなりの年輩者も多い。おもしろいもので、ずっと遠くからでも歩き方でその人のウォーキングのキャリアがわかる。近づいて服装を見れば、どういうお人なのかさえわかる気がする。朝、暗いうちにかっこいいとはいえないフォームで歩いているお年寄りの姿には、思わずていねいな挨拶をする。わが子も含めて、まだ惰眠をむさぼっている若者たちを思いながら。
夫婦でウォーキングという人もよく見かける。すがすがしい朝のひととき、そうムキになって歩くわけでなく、歩調をそろえて話しながらすれ違う姿はうらやましく見える。
──霧中なふたり

もちろん朝夕の散策という人も多い。一人そぞろ歩きの人、知り合いのおじさん同士あるいはおばさん同士でおしゃべりしながら……またはお年寄りのグループとさまざまだ。わたしなどにはそんな歩き方はもったいなく、かったるい気がするが、ご本人は優雅で豊かな時間を楽しんでいるのだろう。
走る人には若い男女が混じる。ここを走るのは、学校や職場でやっているスポーツのためのトレーニングなのだろう。ジョギングが趣味のおじさんも多い。彼らには歩き屋はとろくてじゃまくさい存在だろうが、こちらから見ると汗みずくで息を荒げた走り屋は美的とはいえない。温かい季節にはシャツも着ない裸のランナーをよく見かける。この、すぐに裸になる心理が理解できないのだが、スポーツとしてのジョギングと健康志向のウォーキングの違いなのだろうか。
体育の時間か部活か、まれに集団で走る中学生に会うこともある。肥って動きの悪い子が遅れていくのを見ると、長距離走が苦手だったわが昔を思い出したりする。
土手のコースの第三勢力は、イヌの散歩組だ。それほど遠歩きするわけではないが、入れ替わりの出入りが激しくそのペアはかなり多い。イヌにも気分のいいコースなのだろう。たいていは主人を引っ張る勢いだから、飼い主は自転車というケースもよく見る。
歩き屋と走り屋とイヌ屋、この三派は別に反目し合うわけではない。それでもわたし自身、歩き屋には挨拶を欠かさないが、他に対しては省略することも多いように、同じ仲間に対する意識とは微妙に異なる感じがする。
──コース・デビュー?

■人それぞれの土手
このコースは〈自転車・歩行者専用〉で、自動車締め出しなのがうれしい。車をさけたり排気ガスの中で深呼吸をするくらいなら、歩かないほうがましだから。
したがって、コースでは自転車だけが唯一の乗り物だ。わたしは年季の入った自転車派で、自転車にはきわめて好意的な思想の持ち主だから、山の尾根のような小高い舗装道路を自転車でいくのはさぞいい気分だろうと思う。自転車ファミリーを見るとほほえましく、声をかけたくなるほどだ。
下流に松戸競輪があるせいか、どこかに選手の研修施設でもあるのか、競走用自転車でトレーニングをする姿も多い。頭部に保護具をつけて疾走する常連もいて、わたしはこのコースで競輪についての認識をあらためた気がしている。というのは、スピードがすごい。トレーニングの走りでも時速50〜60㎞くらい出ている。人力でこれだけのスピードを持続できるとはたいしたものだ。
驚くのは、乗り手の脚力である。この速度を生むにはペダルが相当重いはずなのに、軽々とこいでいく。なかにはロープに括りつけた古タイヤを引きずって走っている人もいる。ちらっと見る彼らの脚の筋肉は、鍛えぬかれて圧倒的でさえある。自転車屋には歩き屋としても一目置く気分なのだ。
──祈る、健闘

彼らのマナーのよさにも感心させられる。狭いコースなのだから、前記三派などはよほどじゃまくさい存在であろうに、コース取りや速度加減になかなかの配慮が感じられるのだ。それで思うのは、彼らにとってもこのコースが他に代え難いほど貴重なものだということだ。というのも、見通しのよい平坦な路面で、信号や人や車の往来を気にせず力一杯走行できるコースなど他にない。時速50キロ以上で自他共に危険なく走れるコースとして希少価値を認めているのだろう。
近年、見かけるようになったのはローラースケートだ。これも人けの少ない舗装道路を見つけて参入してきたのだろう。子どもの遊び道具だとばかり思っていたが、ともかくも自分の〈足の力〉でけっこうなスピードを出すからスポーツと認定してやってもいいくらいの運動量ではある。
この細長い社会はまさに社会の縮図で、長いあいだにはいろいろな風変わりな人物に遭遇する。
さほど寒い季節でもないのに、宇宙服のような完全防備で歩く人。鉄亜鈴を持って走る人もいる。音量高くラジオを鳴らしながらジョギングする人。歌でも詩吟でもなく、なにやら奇声を発して走っていく人……。
ケータイを持つ歩き屋に会ったことも二、三度ある。あれがきらいなわたしは、神聖な場所をオカされたような気分になった。しかし、これもご時世か。今どき〈電話のない世界〉を保存したいと願うほうがムリなのかもしれない。
──郷愁

ごみを拾って歩く奇特な人もいる。大きなビニール袋を持って散歩しながら、紙くずやジュース缶を拾ってくれるこんな人に会うと、思わず最敬礼のような挨拶をしてしまう。 ときには後ろ向きで歩く人もいる。あれはふだん使わない筋肉を刺激して、バランス感覚を養うにもいいそうだが、危なっかしい。前方に見えていた後ろ姿が近づいてくると、意表をつかれてぎょっとする。ぎょっとした後で変なことを考えた。
ひょっとして——後ろ向きに歩いただけ時間が逆戻りするならば、肉体もそれだけ若返る。となると、街じゅうに後ろ歩きするおじさんやおばさんがあふれる。専用のシューズも開発されて、オリンピックの正式種目になるかも——なにしろ時間がたっぷりあるから、らちもないことを考えながら歩く。
──おなじみさん


■河川敷に遊ぶ人々
好んで川上に向かうコースを歩くのは、この流域はのどかな自然が広がっているうえ、人に出会うことが比較的少ないからだ。
それが、土手に出て反対の下流方向に歩くとおもむきが大きく異なる。両岸に河川敷が広くつづいており、さまざまなスポーツのグラウンドがある。陽気のいい季節の休日はいつでも〈体育の日〉という景観である。
十数面もある野球場を利用しているのは、ほとんどが会社勤めの人々らしい。遠目にもあざやかとはいえないフィールディングだが、久々に思いっきり身体を動かしていかにも楽しげである。
サッカー場は中学生やちびっこチームの利用が多く、こちらのほうがいつも盛況に見える。かつては長男の野球につきそってよく来たものだが、次男のころにはサッカー人気となって野球クラブは人数が足りなくなったと聞いた。野球からサッカーへというのは厳然たる時代の変化だが、野球ならともかくサッカーにつき合うのはしんどいというのは親父の実感でもある。
野球やサッカーには、応援やらつきそいの父兄やらがつきものだ。乗りつけた車が列をなしてにぎにぎしく、飲食のサービスがあったりで活気づいている。
ラグビーをしているのは高校生らしい。異なる世代がスポーツに興じるようすを土手の上からながめると、その運動量と運動能力の差異をつくづく感じる。
変わり種ではフライングディスクというのも見かけるようになった。プラスチック製の円盤をとばす、スポーツとも遊技ともつかないあれである。
──草原家族

正規のグラウンド以外の空き地でもさまざまに興じる人々がいる。
ラジコンのミニカーを走らせたり、飛行機を飛ばす人もいる。この飛行機は長さ1・5メートルもある本格的なおもちゃで、やかましいがなかなか迫力がある。
上空でもっとすごい爆音がして見上げると、エンジンつきの凧のようなものが飛んで人が乗っている。ハングライダーというのだろうか。ゆっくりと下界の見物をするのは痛快だろうが、無意味に行ったり来たりしているのは何となくあほくさい。騒音をまき散らすに値するほどの遊びとも思えない。
荒れ地を利用して楽しむのはモトクロス。爆音を響かせ土煙をまきあげて、でこぼこの原野をバイクで走り回るようすは暴走族の養成所みたいだ。公認はされていないようだが、こんな場所だからできることで、市街地でやられるよりはましである。
そういえば楽器の演奏もここだからこそだろう。トランペットなどの金管楽器は音がけたたましいから、家ではとても練習などできない。川風の中で思いきり吹き鳴らす人を見ると、これまた気分よさそうだ。
カメラ族もいる。秋のコスモス原は群生もすばらしいが、あでやかな花種も多く、花を愛でる散歩者にまじって写真をとる人もめだつ。何もなさそうな土手でじっとしているのは、小鳥や富士山を撮るシャッター・チャンスを待っているのだろう。
季節にはヨモギやツクシを摘む親子連れ、腰に特製のへらを差してノビロを採っているおじさんはプロなのか。土手下の田んぼでセリを採る人も見かける。
もちろん土手の草原には、クラブを振るお父さんゴルファーの姿が一年じゅう見られる。打球を回収したり探したりは大変だろうが、クラブを振り回すだけでも気分爽快になるのだろう。
夏休みには、犬走りの草原にテントを張っての親子キャンプなども見られる。早朝、毛布などかついで移動する母子はまだ眠そうだが、昨夜の興奮が残っているようだ。
河川敷の空き地で古材木や枯れ木を盛大に燃やしている人もいる。なんとなく親しみをおぼえて、寒い日などはそのたき火を囲む人たちのなかに入って行きたいような気分になる。
川岸伝いに流木を拾っている人もいる。長いこと水に浸かっていた流木は角が取れて、独特の風合いを持っているから、木工や装飾に利用できる。
テントをはったりビーチパラソルを広げて、本格的にくつろぐ人々もいる。大きなアンテナをセットして無線ざんまい、あるいは工作をしたりバーベキューを楽しむ。
土手にねそべって、何もしない人もいる。日光浴か、物思いか、それとも昼寝か。それはそれで、優雅でぜいたくな時間が流れているのだろう。
季節や天候によって登場人物は変わるけれど、いずれもエンジョイする人ばかり。平凡で月並みな趣味しか持たないわたしには、日本人がこれほど多様な趣味を持ち、時間を楽しめるという意味で、この光景は一種の発見であり驚きでもある。そしてこの川沿いはことほどさように、多くの人々にとって得がたい場所なのだ。
──水辺に降りる

■水辺の人々
ここはまた当然に、川遊び本来の場所でもある。
川の流れを最も享受しているのは、なんといっても釣り人だろう。彼らはめっぽう朝が早い。こちらが眠気を振り払って歩き出すと、もう暗い川岸に座り込んでいる。まだ水辺が見えないだろうに、準備万端ととのえて悠然と何かを飲んでいる。どうやら釣り屋というのは、朝早いのではなく夜通しらしい。
岸辺に釣竿を数本も立てて何を考えているのか。じっとしていたんでは、さぞ寒いだろうに、眠いだろうに……身体を動かして体脂肪を燃焼させることに熱心なわたしには信じがたい〈静物〉ぶりだが、いつかあんなこともしてみたいと思わせる雰囲気がある。
──太公望が集まる運河口

この川ではカヌーの練習も盛んだ。目につくだけでも3カ所ほど船着き場があり、ふだんは岸の上の艇庫でカラフルな舟が甲羅干しをしている。よくわからないが、主に一人乗りで、バランスの悪そうな乗り物だ。水量の多い季節には、何隻も水すましのように水面をすべっている。流れを遡るときはかなりハードだろうが、流れにまかせて下る分にはさぞ爽快だろうと思う。
──ペア・カヌー

岸辺には船がもやってあるのを見かける。手こぎの木造船は川の景観に詩情をそえている。船尾に動力をつけてポンポン行くのは釣り船だろう。白いモーターボートはさすがに速く、こちらの歩行速度の数倍のスピードで波を切っていく。
河口の近くまで行くと船宿があって、客待ちの釣り船がたくさん係留されている。川の表情も上流と下流ではずいぶんとおもむきが異なるものだ。
県当局の苦労もあるのだろうが、周辺にこれほどに多くの人々がスポーツや遊びに興じることができるというのは、まさに江戸川の功徳だと思う。
──水辺の想い

■おなじみさん&変わった人
歩き出しは夏なら4時、5時、冬なら6時、7時と時間帯はだいぶ異なる。にもかかわらず、何人か、きまって出会う人がいる。示し合わせたわけでもないのにそうなるのは、お互いに時刻ではなく気象条件によって行動するからだろう。冬なら日が昇って寒さがゆるむころ、夏には日射しが強くならないうちに……と同じように考えるのが、いかにも自然界の住人らしい。
きまって出会うおなじみさんについて考えた。
(こちらは週1回、土曜か日曜だけなのに、いつも会うということは……あちらは毎 朝、歩いているんだ!)
週1回とはいえ、10年間も歩いていれば顔見知りもふえる、かというとそうではない。常連の歩き仲間であり、挨拶を交わす相手でも、名前はおろかどこに住むどんな職業の人かも知らない。それどころか、顔さえよく知らないのだから、別の場所で出会ってもまずわからないだろう。
知っているのは、じつは歩き方や服装なのであり、とくに腕の振り方・足の運び方などの〈歩きぐせ〉によって遠くからでもおなじみさんと認識できるわけなのだ。ある日、はずみでそういう常連のひとりとまともに顔を見合わせたことがある。
(えっ、こういう顔の人だったのか……)と、別に驚いたわけでもがっかりしたわけでもなく、今さらながら他者への無関心ぶりにあきれたのだった。
また、いつも気持ちよく挨拶している人に挨拶をしないで、すれ違いざまに「おはようすっ」とやられて慌てたこともある。しばらく考えて、あちらのフォームが変わっていたことに気づいた。近ごろ病気でもしたのか「腕の振り方」がまったく違っていたため、その特徴で遠くからでも認識できていた人を別人と見た次第。
──愛犬と

こういう匿名性の気楽さも土手の〈細長い社会〉が浮世離れしているゆえんであり、わたしが気に入っている理由のひとつなのだ。
歩くのに専念するか、ほかのことに気を取られているから、すれ違う人の顔を見覚えないのも当然だ。そのかわり、すれ違う一瞬に耳に飛び込んできた会話の断片などはふしぎとよく覚えている。
──朝ごはんがいちばんおいしいのよ(主婦)
──でも、畑あそばせておけないからね(主婦)
──それじゃもう左うちわですなあ(男性)
それぞれ別の場面なのだが、話し手と話題をほうふつさせておもしろい。わたし自身は単独でひたすら歩くだけで人と話すことなどないが、10年間に4度だけ、行き合う人と短い会話をしたことがある。
「富士山がすばらしいですな」「ええ、この時期にはなかなか見られませんからね」(台風一過の空に浮かぶ富士山を眺めていた人と)
「理科の先生なんですか」「いえ、雑草が好きなもんですから」(リュックを背に、野草の束を持って歩くわたしがそう見えたらしい)
「ここは、いいところですねえ」「ええ、この景色は宝物ですよ」(立ち止まって、感に堪えぬようすで川を眺めていた人と)
「よろしかったら、どうぞ。わたし見つけるのがうまいんです」「は? あ、ありがとう。どうも」(とまどってしまったが、このときわたしは四つ葉のクローバをもらった)
前のふたりは男性で、あとは女性。いずれも、年輩者だった。
──散歩する少年

土手の道はカネ・クルマ・デンワに無縁という意味で、浮世離れしているともいえる。江戸川起点の関宿城趾公園を別にすれば、終点の東京湾河口まで約60キロの間には、1台の電話もお金を使う場所もない。
わたしが歩く流域の左岸でみれば、海から21キロ地点に公衆トイレがあるのみ。このご時世に、電話や自動車から隔離されて財布も不要とは、まことに得難い空間ではないか。
この浮世離れした自然環境で何時間も過ごすには、単身ヨットで海に乗り出す人やマラソンランナーと同じで、体調のチェックと事前の準備が欠かせない。そういう自己管理の習慣が身についていない人は、はじめから失格者といえるだろう。
「広い世の中」といわれるように、社会は広いものと決まっている。たしかに土手のコースに出れば視界は360度、せせこましい日常がアホらしく思われるほどの広さだ。ところが、ウォーキング・デイにおけるわたしの〈社会〉というのは、広いどころかすごく狭い。ただし、長い。具体的にいえば、幅が2・3メートルの長さ20キロ、つまりひどく細長いのだ。
また「つらい浮世」というように、この世はつらくきびしいものと決まっているが、この細長い社会にいるかぎり、わたしはつらさもきびしさも感じない。サラリーマン・ライフの中で毎日うんざりするくらい感じる、いらだたしさや空しさもまったくないのだ。
たかとおは 山すそのまち 古きまち
行きかう子らの うつくしき町 (花袋)
健脚で知られた田山花袋は、信州高遠の町をこう詠った。そこはわたしの祖先の足跡が残る土地ということもあって、この町を歩くと本当に人も景色もみな美しく善意に充ちているように感じるのだが、土手の〈細長い社会〉は、わたしを同じような気分にさせる。日ごろ気むずかしい顔して口も重い人間が、別人のように快活にふるまえるのはふしぎなことだ。
──政夫&民子?

人の一生がしばしば川の流れにたとえられるように、この〈細長い社会〉も人生によく似ている。ここでは数こそ多くないが、さまざまな人に出会う。常連がいる一方で、一度すれ違っただけという人もいる。追い抜いたり、抜かれたりもする。途中、前方にこつ然と人影が現れたり、ふっと消えてしまう人もある。(これは近くに住む人が気軽に土手に出てひと歩き、というケースなのだが)。
そして江戸川を悠久の時間の流れに見立てれば、その河口から30〜40キロ地点をちょこちょこと歩いているわたしは、歴史のほんの一時期を生きる存在のようなものだ。そう考えると、行き交い、目前につかの間登場する人々にも他生の縁を感じるのである。土手の仲間というべき人々をご紹介しよう。
──土手の雪だるま

■土手コースの三派
土手の人種は老若男女さまざま、けっこう多種多彩である。
まず、同好の士であるところの歩く人々。というのは漫然たる散歩ではなく、一応トレーニングのいでたちをして目的的で、それなりに気を入れて歩く人たちのことだ。
この仲間には中年やお年寄りが多い。わたしの歩くのが休日のせいか、日ごろ運動不足のサラリーマンや管理職ふうが目立つ。こういう人に出会うと一週間の会社勤めが想像されて、挨拶にも「がんばってますな」という気持ちがこもる。
近在の農家の主婦やかなりの年輩者も多い。おもしろいもので、ずっと遠くからでも歩き方でその人のウォーキングのキャリアがわかる。近づいて服装を見れば、どういうお人なのかさえわかる気がする。朝、暗いうちにかっこいいとはいえないフォームで歩いているお年寄りの姿には、思わずていねいな挨拶をする。わが子も含めて、まだ惰眠をむさぼっている若者たちを思いながら。
夫婦でウォーキングという人もよく見かける。すがすがしい朝のひととき、そうムキになって歩くわけでなく、歩調をそろえて話しながらすれ違う姿はうらやましく見える。
──霧中なふたり

もちろん朝夕の散策という人も多い。一人そぞろ歩きの人、知り合いのおじさん同士あるいはおばさん同士でおしゃべりしながら……またはお年寄りのグループとさまざまだ。わたしなどにはそんな歩き方はもったいなく、かったるい気がするが、ご本人は優雅で豊かな時間を楽しんでいるのだろう。
走る人には若い男女が混じる。ここを走るのは、学校や職場でやっているスポーツのためのトレーニングなのだろう。ジョギングが趣味のおじさんも多い。彼らには歩き屋はとろくてじゃまくさい存在だろうが、こちらから見ると汗みずくで息を荒げた走り屋は美的とはいえない。温かい季節にはシャツも着ない裸のランナーをよく見かける。この、すぐに裸になる心理が理解できないのだが、スポーツとしてのジョギングと健康志向のウォーキングの違いなのだろうか。
体育の時間か部活か、まれに集団で走る中学生に会うこともある。肥って動きの悪い子が遅れていくのを見ると、長距離走が苦手だったわが昔を思い出したりする。
土手のコースの第三勢力は、イヌの散歩組だ。それほど遠歩きするわけではないが、入れ替わりの出入りが激しくそのペアはかなり多い。イヌにも気分のいいコースなのだろう。たいていは主人を引っ張る勢いだから、飼い主は自転車というケースもよく見る。
歩き屋と走り屋とイヌ屋、この三派は別に反目し合うわけではない。それでもわたし自身、歩き屋には挨拶を欠かさないが、他に対しては省略することも多いように、同じ仲間に対する意識とは微妙に異なる感じがする。
──コース・デビュー?

■人それぞれの土手
このコースは〈自転車・歩行者専用〉で、自動車締め出しなのがうれしい。車をさけたり排気ガスの中で深呼吸をするくらいなら、歩かないほうがましだから。
したがって、コースでは自転車だけが唯一の乗り物だ。わたしは年季の入った自転車派で、自転車にはきわめて好意的な思想の持ち主だから、山の尾根のような小高い舗装道路を自転車でいくのはさぞいい気分だろうと思う。自転車ファミリーを見るとほほえましく、声をかけたくなるほどだ。
下流に松戸競輪があるせいか、どこかに選手の研修施設でもあるのか、競走用自転車でトレーニングをする姿も多い。頭部に保護具をつけて疾走する常連もいて、わたしはこのコースで競輪についての認識をあらためた気がしている。というのは、スピードがすごい。トレーニングの走りでも時速50〜60㎞くらい出ている。人力でこれだけのスピードを持続できるとはたいしたものだ。
驚くのは、乗り手の脚力である。この速度を生むにはペダルが相当重いはずなのに、軽々とこいでいく。なかにはロープに括りつけた古タイヤを引きずって走っている人もいる。ちらっと見る彼らの脚の筋肉は、鍛えぬかれて圧倒的でさえある。自転車屋には歩き屋としても一目置く気分なのだ。
──祈る、健闘

彼らのマナーのよさにも感心させられる。狭いコースなのだから、前記三派などはよほどじゃまくさい存在であろうに、コース取りや速度加減になかなかの配慮が感じられるのだ。それで思うのは、彼らにとってもこのコースが他に代え難いほど貴重なものだということだ。というのも、見通しのよい平坦な路面で、信号や人や車の往来を気にせず力一杯走行できるコースなど他にない。時速50キロ以上で自他共に危険なく走れるコースとして希少価値を認めているのだろう。
近年、見かけるようになったのはローラースケートだ。これも人けの少ない舗装道路を見つけて参入してきたのだろう。子どもの遊び道具だとばかり思っていたが、ともかくも自分の〈足の力〉でけっこうなスピードを出すからスポーツと認定してやってもいいくらいの運動量ではある。
この細長い社会はまさに社会の縮図で、長いあいだにはいろいろな風変わりな人物に遭遇する。
さほど寒い季節でもないのに、宇宙服のような完全防備で歩く人。鉄亜鈴を持って走る人もいる。音量高くラジオを鳴らしながらジョギングする人。歌でも詩吟でもなく、なにやら奇声を発して走っていく人……。
ケータイを持つ歩き屋に会ったことも二、三度ある。あれがきらいなわたしは、神聖な場所をオカされたような気分になった。しかし、これもご時世か。今どき〈電話のない世界〉を保存したいと願うほうがムリなのかもしれない。
──郷愁

ごみを拾って歩く奇特な人もいる。大きなビニール袋を持って散歩しながら、紙くずやジュース缶を拾ってくれるこんな人に会うと、思わず最敬礼のような挨拶をしてしまう。 ときには後ろ向きで歩く人もいる。あれはふだん使わない筋肉を刺激して、バランス感覚を養うにもいいそうだが、危なっかしい。前方に見えていた後ろ姿が近づいてくると、意表をつかれてぎょっとする。ぎょっとした後で変なことを考えた。
ひょっとして——後ろ向きに歩いただけ時間が逆戻りするならば、肉体もそれだけ若返る。となると、街じゅうに後ろ歩きするおじさんやおばさんがあふれる。専用のシューズも開発されて、オリンピックの正式種目になるかも——なにしろ時間がたっぷりあるから、らちもないことを考えながら歩く。
──おなじみさん


■河川敷に遊ぶ人々
好んで川上に向かうコースを歩くのは、この流域はのどかな自然が広がっているうえ、人に出会うことが比較的少ないからだ。
それが、土手に出て反対の下流方向に歩くとおもむきが大きく異なる。両岸に河川敷が広くつづいており、さまざまなスポーツのグラウンドがある。陽気のいい季節の休日はいつでも〈体育の日〉という景観である。
十数面もある野球場を利用しているのは、ほとんどが会社勤めの人々らしい。遠目にもあざやかとはいえないフィールディングだが、久々に思いっきり身体を動かしていかにも楽しげである。
サッカー場は中学生やちびっこチームの利用が多く、こちらのほうがいつも盛況に見える。かつては長男の野球につきそってよく来たものだが、次男のころにはサッカー人気となって野球クラブは人数が足りなくなったと聞いた。野球からサッカーへというのは厳然たる時代の変化だが、野球ならともかくサッカーにつき合うのはしんどいというのは親父の実感でもある。
野球やサッカーには、応援やらつきそいの父兄やらがつきものだ。乗りつけた車が列をなしてにぎにぎしく、飲食のサービスがあったりで活気づいている。
ラグビーをしているのは高校生らしい。異なる世代がスポーツに興じるようすを土手の上からながめると、その運動量と運動能力の差異をつくづく感じる。
変わり種ではフライングディスクというのも見かけるようになった。プラスチック製の円盤をとばす、スポーツとも遊技ともつかないあれである。
──草原家族

正規のグラウンド以外の空き地でもさまざまに興じる人々がいる。
ラジコンのミニカーを走らせたり、飛行機を飛ばす人もいる。この飛行機は長さ1・5メートルもある本格的なおもちゃで、やかましいがなかなか迫力がある。
上空でもっとすごい爆音がして見上げると、エンジンつきの凧のようなものが飛んで人が乗っている。ハングライダーというのだろうか。ゆっくりと下界の見物をするのは痛快だろうが、無意味に行ったり来たりしているのは何となくあほくさい。騒音をまき散らすに値するほどの遊びとも思えない。
荒れ地を利用して楽しむのはモトクロス。爆音を響かせ土煙をまきあげて、でこぼこの原野をバイクで走り回るようすは暴走族の養成所みたいだ。公認はされていないようだが、こんな場所だからできることで、市街地でやられるよりはましである。
そういえば楽器の演奏もここだからこそだろう。トランペットなどの金管楽器は音がけたたましいから、家ではとても練習などできない。川風の中で思いきり吹き鳴らす人を見ると、これまた気分よさそうだ。
カメラ族もいる。秋のコスモス原は群生もすばらしいが、あでやかな花種も多く、花を愛でる散歩者にまじって写真をとる人もめだつ。何もなさそうな土手でじっとしているのは、小鳥や富士山を撮るシャッター・チャンスを待っているのだろう。
季節にはヨモギやツクシを摘む親子連れ、腰に特製のへらを差してノビロを採っているおじさんはプロなのか。土手下の田んぼでセリを採る人も見かける。
もちろん土手の草原には、クラブを振るお父さんゴルファーの姿が一年じゅう見られる。打球を回収したり探したりは大変だろうが、クラブを振り回すだけでも気分爽快になるのだろう。
夏休みには、犬走りの草原にテントを張っての親子キャンプなども見られる。早朝、毛布などかついで移動する母子はまだ眠そうだが、昨夜の興奮が残っているようだ。
河川敷の空き地で古材木や枯れ木を盛大に燃やしている人もいる。なんとなく親しみをおぼえて、寒い日などはそのたき火を囲む人たちのなかに入って行きたいような気分になる。
川岸伝いに流木を拾っている人もいる。長いこと水に浸かっていた流木は角が取れて、独特の風合いを持っているから、木工や装飾に利用できる。
テントをはったりビーチパラソルを広げて、本格的にくつろぐ人々もいる。大きなアンテナをセットして無線ざんまい、あるいは工作をしたりバーベキューを楽しむ。
土手にねそべって、何もしない人もいる。日光浴か、物思いか、それとも昼寝か。それはそれで、優雅でぜいたくな時間が流れているのだろう。
季節や天候によって登場人物は変わるけれど、いずれもエンジョイする人ばかり。平凡で月並みな趣味しか持たないわたしには、日本人がこれほど多様な趣味を持ち、時間を楽しめるという意味で、この光景は一種の発見であり驚きでもある。そしてこの川沿いはことほどさように、多くの人々にとって得がたい場所なのだ。
──水辺に降りる

■水辺の人々
ここはまた当然に、川遊び本来の場所でもある。
川の流れを最も享受しているのは、なんといっても釣り人だろう。彼らはめっぽう朝が早い。こちらが眠気を振り払って歩き出すと、もう暗い川岸に座り込んでいる。まだ水辺が見えないだろうに、準備万端ととのえて悠然と何かを飲んでいる。どうやら釣り屋というのは、朝早いのではなく夜通しらしい。
岸辺に釣竿を数本も立てて何を考えているのか。じっとしていたんでは、さぞ寒いだろうに、眠いだろうに……身体を動かして体脂肪を燃焼させることに熱心なわたしには信じがたい〈静物〉ぶりだが、いつかあんなこともしてみたいと思わせる雰囲気がある。
──太公望が集まる運河口

この川ではカヌーの練習も盛んだ。目につくだけでも3カ所ほど船着き場があり、ふだんは岸の上の艇庫でカラフルな舟が甲羅干しをしている。よくわからないが、主に一人乗りで、バランスの悪そうな乗り物だ。水量の多い季節には、何隻も水すましのように水面をすべっている。流れを遡るときはかなりハードだろうが、流れにまかせて下る分にはさぞ爽快だろうと思う。
──ペア・カヌー

岸辺には船がもやってあるのを見かける。手こぎの木造船は川の景観に詩情をそえている。船尾に動力をつけてポンポン行くのは釣り船だろう。白いモーターボートはさすがに速く、こちらの歩行速度の数倍のスピードで波を切っていく。
河口の近くまで行くと船宿があって、客待ちの釣り船がたくさん係留されている。川の表情も上流と下流ではずいぶんとおもむきが異なるものだ。
県当局の苦労もあるのだろうが、周辺にこれほどに多くの人々がスポーツや遊びに興じることができるというのは、まさに江戸川の功徳だと思う。
──水辺の想い

■おなじみさん&変わった人
歩き出しは夏なら4時、5時、冬なら6時、7時と時間帯はだいぶ異なる。にもかかわらず、何人か、きまって出会う人がいる。示し合わせたわけでもないのにそうなるのは、お互いに時刻ではなく気象条件によって行動するからだろう。冬なら日が昇って寒さがゆるむころ、夏には日射しが強くならないうちに……と同じように考えるのが、いかにも自然界の住人らしい。
きまって出会うおなじみさんについて考えた。
(こちらは週1回、土曜か日曜だけなのに、いつも会うということは……あちらは毎 朝、歩いているんだ!)
週1回とはいえ、10年間も歩いていれば顔見知りもふえる、かというとそうではない。常連の歩き仲間であり、挨拶を交わす相手でも、名前はおろかどこに住むどんな職業の人かも知らない。それどころか、顔さえよく知らないのだから、別の場所で出会ってもまずわからないだろう。
知っているのは、じつは歩き方や服装なのであり、とくに腕の振り方・足の運び方などの〈歩きぐせ〉によって遠くからでもおなじみさんと認識できるわけなのだ。ある日、はずみでそういう常連のひとりとまともに顔を見合わせたことがある。
(えっ、こういう顔の人だったのか……)と、別に驚いたわけでもがっかりしたわけでもなく、今さらながら他者への無関心ぶりにあきれたのだった。
また、いつも気持ちよく挨拶している人に挨拶をしないで、すれ違いざまに「おはようすっ」とやられて慌てたこともある。しばらく考えて、あちらのフォームが変わっていたことに気づいた。近ごろ病気でもしたのか「腕の振り方」がまったく違っていたため、その特徴で遠くからでも認識できていた人を別人と見た次第。
──愛犬と

こういう匿名性の気楽さも土手の〈細長い社会〉が浮世離れしているゆえんであり、わたしが気に入っている理由のひとつなのだ。
歩くのに専念するか、ほかのことに気を取られているから、すれ違う人の顔を見覚えないのも当然だ。そのかわり、すれ違う一瞬に耳に飛び込んできた会話の断片などはふしぎとよく覚えている。
──朝ごはんがいちばんおいしいのよ(主婦)
──でも、畑あそばせておけないからね(主婦)
──それじゃもう左うちわですなあ(男性)
それぞれ別の場面なのだが、話し手と話題をほうふつさせておもしろい。わたし自身は単独でひたすら歩くだけで人と話すことなどないが、10年間に4度だけ、行き合う人と短い会話をしたことがある。
「富士山がすばらしいですな」「ええ、この時期にはなかなか見られませんからね」(台風一過の空に浮かぶ富士山を眺めていた人と)
「理科の先生なんですか」「いえ、雑草が好きなもんですから」(リュックを背に、野草の束を持って歩くわたしがそう見えたらしい)
「ここは、いいところですねえ」「ええ、この景色は宝物ですよ」(立ち止まって、感に堪えぬようすで川を眺めていた人と)
「よろしかったら、どうぞ。わたし見つけるのがうまいんです」「は? あ、ありがとう。どうも」(とまどってしまったが、このときわたしは四つ葉のクローバをもらった)
前のふたりは男性で、あとは女性。いずれも、年輩者だった。
──散歩する少年

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by knaito57
| 2005-05-17 17:11
| 9 社会の時間
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