2014年 02月 18日
●魂の居場所 |
一月某日、朝七時。土手からの帰り道。野田街道を渡るところで、気になる三人連れと出会った。中年の男女と若い男性で、花束を抱えている。お彼岸どきではなし、近くに寺もない。しかも駅とは逆方向に向かうようすがいかにも「??」。見ていると電柱の脇にくくりつけられた花を取り替え始めた。
そこは二年ほど前、ふたりの子を連れた母親が事故に遭遇、就学前の子が亡くなった場所で、以来欠かさず花やジュースが供えられている。見知らぬ人ながら親としてまた幼い孫を持つ身として、通りがかるたびにその悲劇を思いやっていた。
──もしもわが身辺の災難であったなら、ひ弱な自分はつぶれてしまっただろう。若い母親には早く立ち直ってほしい。難を免れた妹(弟?)のケアや夫婦のやりとりを思えば胸ふさがる思いがするが、亡くなった子のためにもなんとか克服してほしい──と。
この供花は一年過ぎてもつづいていた。それだけ哀しみが深く、心の傷は癒えることがないのだろう──そう思う気持ちとは裏腹に偏狭で不信心な考えも沸いてくる。
人通りの多い場所だから目障りだ。公道の私的使用だ。第一、霊魂など存在しないのだし、亡くなった子の魂がいつまでもこの辺にあるはずがないのだから。
それでも気の毒に思うし、二年ものあいだよく続けましたねと三人連れに話しかけた。ところが、こちらが涙ぐむ始末なのにどうも話がかみ合わない。やがて彼らは親族ではなく、事故を起こした会社の人々とわかり、私の独り合点は一変する。
社長なる人物が語るには
──うちの運転手がやりましてね……二十五日が命日なので月一度……なに、造花なんですよ。
これはまた奇特なと、あらためて見れば社長夫妻と息子(あるいは運転手)か。被害者の身内だけでなく、この人たちもまた重い日々を生きている! 私はこうして仮設墓所に詣でる気持ちに頭が下がると同時に、路傍の供花の背後にあるさまざまな哀しみと苦悩に思いを馳せたのだが……。

そもそも私は自我の強い偏屈人間で、宗教や僧侶・神職ぎらいで通してきた不信心モノなのだ。神仏や霊魂の存在など認めないから神社参りもしない。その点、安倍総理とは違うわけだ。お役目柄、菩提寺の住職とは一応のつき合いはするけれど、墓参りに行きながら掃除をした後で手を合わせることを失念して帰ったことが何度もある。風を愉しむ
だから「♪♪お墓の下に眠ってなんかいません」という歌が流行ったときは(当然!)とうそぶいたものだが、といっても死者の魂が風になったり星になったりというご都合主義に賛同するわけでもない。だからといってまったく罰当たりの無神論者ではなく、自分なりの神というか信仰心らしきものはある。
それは小学二年のときに亡くなった父がいつもどこからか見ていてくれるという思いで、父よりもずっと年長になった今日でも変わらない。トシをとるにつれて父が見ていてくれるその場所が、しだいにハッキリしてきた。それは私の頭上の斜め前、時計でいえば二時の方向で、時に応じて数メートルの空間である。長い人生をあまり踏み外しもせずやってこれたのは、父のその眼差しのおかげだと思っている。
★皆さま ごぶさたしています。変わりなくご活躍のことと思います。というような次第で、土手を歩きながらまとめた短歌二種をご披露いたします。
路傍には 二年経てなほ 花と菓子 見知らぬ親の 痛哭思ほゆ
その場所に 二年経てなほ 花菓子あり 轢かれし幼児の 魂は何処
そこは二年ほど前、ふたりの子を連れた母親が事故に遭遇、就学前の子が亡くなった場所で、以来欠かさず花やジュースが供えられている。見知らぬ人ながら親としてまた幼い孫を持つ身として、通りがかるたびにその悲劇を思いやっていた。
──もしもわが身辺の災難であったなら、ひ弱な自分はつぶれてしまっただろう。若い母親には早く立ち直ってほしい。難を免れた妹(弟?)のケアや夫婦のやりとりを思えば胸ふさがる思いがするが、亡くなった子のためにもなんとか克服してほしい──と。
この供花は一年過ぎてもつづいていた。それだけ哀しみが深く、心の傷は癒えることがないのだろう──そう思う気持ちとは裏腹に偏狭で不信心な考えも沸いてくる。
人通りの多い場所だから目障りだ。公道の私的使用だ。第一、霊魂など存在しないのだし、亡くなった子の魂がいつまでもこの辺にあるはずがないのだから。
それでも気の毒に思うし、二年ものあいだよく続けましたねと三人連れに話しかけた。ところが、こちらが涙ぐむ始末なのにどうも話がかみ合わない。やがて彼らは親族ではなく、事故を起こした会社の人々とわかり、私の独り合点は一変する。
社長なる人物が語るには
──うちの運転手がやりましてね……二十五日が命日なので月一度……なに、造花なんですよ。
これはまた奇特なと、あらためて見れば社長夫妻と息子(あるいは運転手)か。被害者の身内だけでなく、この人たちもまた重い日々を生きている! 私はこうして仮設墓所に詣でる気持ちに頭が下がると同時に、路傍の供花の背後にあるさまざまな哀しみと苦悩に思いを馳せたのだが……。

そもそも私は自我の強い偏屈人間で、宗教や僧侶・神職ぎらいで通してきた不信心モノなのだ。神仏や霊魂の存在など認めないから神社参りもしない。その点、安倍総理とは違うわけだ。お役目柄、菩提寺の住職とは一応のつき合いはするけれど、墓参りに行きながら掃除をした後で手を合わせることを失念して帰ったことが何度もある。風を愉しむ
だから「♪♪お墓の下に眠ってなんかいません」という歌が流行ったときは(当然!)とうそぶいたものだが、といっても死者の魂が風になったり星になったりというご都合主義に賛同するわけでもない。だからといってまったく罰当たりの無神論者ではなく、自分なりの神というか信仰心らしきものはある。
それは小学二年のときに亡くなった父がいつもどこからか見ていてくれるという思いで、父よりもずっと年長になった今日でも変わらない。トシをとるにつれて父が見ていてくれるその場所が、しだいにハッキリしてきた。それは私の頭上の斜め前、時計でいえば二時の方向で、時に応じて数メートルの空間である。長い人生をあまり踏み外しもせずやってこれたのは、父のその眼差しのおかげだと思っている。
★皆さま ごぶさたしています。変わりなくご活躍のことと思います。というような次第で、土手を歩きながらまとめた短歌二種をご披露いたします。
路傍には 二年経てなほ 花と菓子 見知らぬ親の 痛哭思ほゆ
その場所に 二年経てなほ 花菓子あり 轢かれし幼児の 魂は何処
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by knaito57
| 2014-02-18 03:59
| ◎土手の細道
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