2005年 03月 17日
1 ウォーミングアップ(予習)の時間 |
■〈歩き〉に出会うまで
江戸川の、土手を歩いて10年になる。それはわたしの長いサラリーマン人生の、終盤の歳月であった。そしてまた後になって気づくことだが、このウォーキングは心身両面からの〈自己改造〉の始まりでもあった。
週に1回、同じコースの往復12キロメートルを2時間で、雨でもないかぎり夏でも冬でも欠かさず歩く。今ではそれが生活のリズムとなり、わたしの人生に小さくはない意義を持つ日課となっている。
〈使用前〉〈使用後〉的にわがことを考察すれば、はっきりとわかるのは身体的な変化だ。当初、歩いて帰った後はスポーツマンというよりも敗残兵のようなざまで、数日はへたばっていた。それが今では、文字どおり朝飯前の準備運動ていどの気軽さでこなす。脚部の筋肉が自分の足とは思えないほど発達して、減量効果もみえる。体脂肪率が顕著に下がったから、内臓など諸機能の改善もかなりのものだろう。要するに体力に自信がついたことが大きい。
運動の効用というか副産物というべきか、精神的な収穫の多大さは予想外のものであった。土手を歩いているとき、幸せな充実感の中に自分を取り戻した気分になっている。見過ごしていた自然や景色にふれ、来し方行く末をあれこれと考える。(こうしてせっせと歩いていれば、もしかしたら当面の悩みや将来の不安を解決する答えが見つかるかしれない……のみならず、人生の真理、地に足がついた生き方をつかめるかもしれない……)おおげさだが、そんな思いさえある。
禁煙を誓っても英会話に奮起してもいつも三日坊主なのに、ウォーキングだけは挫折の危機もなくわがものになっている。それだけ確かな手(足)応えがあるということだ。今回ばかりは明快な目標を持ち、準備期間をへて始めたことだから、楽しみながらモノにできたのだと思う。
その目標とは「タフで引き締まったボディになりたい」である。正確にいえば「かっこよくなりたい」よりも「見苦しくなりたくない」一心だった。幸いにわたしは健康であり、年齢のわりには体力もある。だから歩くことに期待したのは、長生きをしようという健康法や速歩の達人になることではなく、体重をしぼって強靭な肉体を取り戻すことだった。
40代の後半に、わたしはまぎれもなく〈中年太り〉の仲間入りをしつつあった。〈標準体重〉を大きく上回り、いつも身体の重さや胴回りのきれの悪さを自覚していた。ある日、ふろ上がりの赤らんだ腹に浮かんだ、横二筋の白い線がショックだった。以来、ゆるんで肥ったわが姿を容認できないでいた。
そのころ、自分には無縁と思っていた腰痛にみまわれて運動不足を痛感、たまたま勤務先の近くにオープンしたフィットネスクラブのチラシを見て、そのメンバーとなった。
年齢的にも仕事の面でも転機にさしかかっているのは明らかで、わたしは何かを変えたい思いで黙々とクラブに通った。学生時代の懶惰な暮らしにつづくサラリーマン生活──じつに40年がかりで脆弱にしてしまった肉体を、親からいただいたままの頑健な身体に戻そうという自己改革が始まった。
やがて肩や胸に筋肉がついて、四肢の力が着実にアップしていった。いつの間にか腰痛もあちらから敬遠したようだった。ところが、とんだ思惑違いがあった。体重のほうは減るどころか、むしろ増えていく!
クラブのコンピュータはこういう事態をお見通しで、しばしば「筋肉は脂肪よりも重いのです」などと気休めのメッセージをよこす。それもそうかと思い直してマシン相手に筋力トレーニングをつづけるうちに、上半身が発達して手持ちの背広やワイシャツが着られなくなった。そのころになって、ようやく「減量には体脂肪を燃やす持続的な有酸素運動が必要」だと知る。
そこでトレーニング・メニューを変更して、目標をつぎのように立て直した。
⑴せっかくやってきたのだから、ベンチプレスで100㎏を挙げる
⑵歩行マシンとペダル踏みを導入して、いずれロードを歩けるように下半身を鍛える
──北へ

■お父さんの〈身体改造計画〉
五十肩の痛みに苦しんで、⑴の達成までにはそれから数年を要した。そのぶん、⑵への備えはじっくりできたわけで、歩行マシン上で自分の脚力を正確に把握した。時速6〜6.5キロで一時間を歩ける自信がついたのがこの段階だった。
頃やよし。わたしはクラブという温室を出て、本格的にロードコースを歩くことにした。そのコースは、あらかじめ決まっていた。それは自宅近くを流れる江戸川の土手で、わたしは勝手知ったるこの道をイメージしながら歩行マシン上を歩いていたのだった。
土手のコースを定期的に歩くようになって間もないころ、印象的な二つのできごとがあった。
一つはオリンピックにおける有森裕子さんのがんばり。さわやかな激走が、ぬるま湯に浸かりきったような日本人に感動を与え、わたしは身体能力を鍛えることに〈開眼〉したような気がした。
もう一つは「フーテンの寅さん」で親しまれた渥美清さんの死。わたしはファンというほどではないが、映画に必ず出てくる江戸川土手の光景が好きだった。一人で土手の道を闊歩するとき、しばしば〈寅さん気分〉になったものだ。
わたしは、ウォーキングの実力を〈初段〉くらいだと自覚している。というのは、本式のスポーツマンにはとても及ばないが、一般人よりは明らかに上といえるレベルだ。そして具体的な目標を「42㎞を7時間で歩く」こと、つまり時速6キロを7時間持続できるようになることに置き、それができたら〈二段〉だと考えた。そこであらためてつぎのような三つの目標を掲げた。すなわち60歳の定年時に──
⑴42㎞を7時間で歩く
⑵体重を70㎏におとす
⑶ベンチプレス100㎏を維持する
以上がわたしの身体改造計画であり、ウォーキングとの出会いである。目標数値などを掲げると体力増強に目の色を変えた中年男の悪あがきに見られそうだが、けっしてそんなことはない。長時間の運動を何年にもわたって持続していくためには、心理学の法則からいっても具体的な目標が必要なのだ。
そして実際に歩くようになって発見・実感したのは、楽しさにまさる動機づけはないということ。ときには身体がきつくてもおっくうでも、歩くことが楽しくていい気分だからつづけられること。
こうして当初は身体面の変革を意図して歩き始めたのが、副産物と呼ぶには惜しいくらいの精神面の収穫を得ることになった。そのことについてはおいおい述べることにして、まずは初めてロードに出る前の準備のようすをご紹介したい。
──常磐道の灯

■〈若葉マーク〉ロードへ
自慢じゃないが、わたしのスポーツ・ルックは中古品の寄せ集めである。若者とちがってかっこよく見せたい気持ちはさらさらないし、スポーツにお金をかけるなどはぜいたくと思う気分がある。だからクラブでもロードでも、Tシャツ、ウェアからシューズまですべて息子たちのお古で間に合わせてきた。(じつは真新しいものを身につけてコースに出るのが〈若葉マーク〉の証明みたいで、気恥ずかしい思いもあった)
さて、初めてのロードは盛夏8月、暑さがややおさまった夕方のことだった。江戸川の土手沿いに伸びる〈自転車・歩行者専用〉コースが、室内でトレーニングを積んだわたしの登場を待っていた。
なにしろ若葉マークだから、遠慮がちに歩き始めたものだ。すれ違う人に会釈をしたり、挨拶をされてあわてて返したり、まあ、ういういしい歩き初めであった。それでも気が張っていたから、確かな足どりで歩いて、暗くなるころ無事に初日を終えた。
この日だけの経験から、服装をすべて白ずくめにすることにした。夕闇が迫っても目立ちやすいという、他人との衝突・追突を防ぐ配慮からだ。実際、時間の都合と強い陽射しをさけるために早朝未明にスタートしたり、午後からの歩きの場合、帰り着くころは夕暮れというケースが多い。それでも白い服装なら、安全性が高いだけでなく他人様をぎょっとさせるようなこともない。このいでたちは「わたしは決して怪しいものじゃありませんよ」という意思表示でもあるのだ。げんにこの10年間に、土手で若者たちのけんかによる殺人事件がひとつ、川で発見された水死者が三つあった。ロードは決して安全とばかりもいえないのだ。
もうひとつ、シューズに対する認識をあらためた。というのは、2時間ほど歩いただけで無残な足先になってしまったからだ。足の裏が広い範囲にわたって水ぶくれ状になり、厚い皮が遊離してその痛いこと、ようやくに帰り着いたことも再三だった。
よく、靴ははきなれた古いのにかぎるという。しかし、室内でペダル踏みをしたり回転するベルトの上を歩くのと違って、ロードはそんなにやさしくない。コースには舗装面だけでなく、砂利敷きや雑草のでこぼこ道もあるから、かなりタフな靴底でないと継続的な衝撃から足を保護しきれないのだ。考えてみればシューズは歩き屋さんにとって最大唯一の武器なのだから、よいシューズをはけば足の保護だけでなく、よい歩きができるのは当然である。以来、シューズにだけは神経を使って新調することした。
初めてロードに出るに当たっては、携帯品入れとして長女が使っていた小さなナップザックを用意した。それにマジックペンで名前と電話番号を書いて、さまざまな小物といっしょに小銭とテレフォンカードを入れた。次女が「行き倒れになったとき知らせてもらえるね」と笑ったが、まあそんなところだ。実際、長時間のウォーキングではどんなアクシデントがあるかわからない。それに、人けのない土手で身体に変調をきたしたらどうなるか……〈若葉マーク〉だけに、ちょいと慎重になっていたのだった。
──自転車・歩行者専用

■リュックの中身
そのナップザックがこわれた後、二代目となった白いリュックサックにも同じように名前を書き、小銭とテレフォンカードを入れた。
キャリアを積み、距離が伸び、四季を経験するにつれて、背中のリュックの中身もふえた。といっても、いずれも少量・小型なので負担になるほどの重さではない。その内容、小間物屋ぶりをご披露すると——。
・ラジオ……早朝に歩くことが多いので、7時のニュースを中心に天気予報・各地の話 題などでその日の雑情報を仕入れる。NHK「音に会いたい」「新聞を読んで」はよ く聞く。野茂投手が登板する大リーグの試合は、時間に合わせて歩き出して必ず聞い た。
・タオルハンカチ……用意のために持っているだけであまり使わない。
・ティッシュ……よく街頭で配っているやつを入れている。
・ばんそうこう……なれると靴ずれは起こさないが、足指の保護に使う。
・缶飲料……ウーロン茶など1缶だけ。非常用のつもりで、なるべく飲まない。
・あめ……エネルギーの補給が必要なとき用、チョコレートのこともある。
・手帳とシャープペン……古い年度のものを、見たこと考えたことのメモ用に。
・地図……利根川との分岐点から海まで、60キロにわたる江戸川流域全図。
・英会話本……放り込んであるだけ。気になるフレーズを調べるていど。
・軍手……手がかじかむ寒い時期は必需、春・秋でもけっこう役立つ。
・フード……雨と耳の防寒用。コートについていた古いのを利用している。
その他、とくに小鳥や遠景を見たいとき、会話テープや音楽を聴くつもりのときだけ、重いのをがまんして双眼鏡やカセットレコーダーを携行することもある。
小物入れはその後、腰周りにつけるベルト型のものに替えた。あまり美的とはいえないものだが、肩にかかる負担と背中の汗を軽減するメリットがある。
帽子はオーストラリア製のつば広カウボーイハットを用意した。長時間日光に当たってグロッキー気味になったことがあるので、雨や強い陽射しが予想されるときだけ着用している。
蛇足ながら、万歩計などという変なモノは身につけない。後述するように必要がないからだが、〈健康マニア〉みたいで格好悪いから、という気持が強い。
以上のごとき完全装備でいざ出発、という前に大切なことが二つある。トイレをすませることとコップに半分ほどの水分をとること──これで完ぺきだ。
──今日も北へ

■〈歩き〉はヒトの原点
主義というほど大げさではないが、わたしには〈人力〉を偏重する反面で道具や機械をきらう傾向がある。
たとえば自動車ぎらいで、携帯電話などは軽蔑している。パソコンは使うが、これを使うお遊びは毛嫌いしている。食べ物でいえばいも・豆など素材に近いものを好み、加工食品やファストフードはだめ。スポーツならシンプルに速さと力をぶつけ合う陸上や格闘技こそ一流で、道具を用いたり技術の要素が大きくなる球技などは三流と決めつけている。
この偏見・偏屈ぶりを自己分析すると、科学や文明よりも自然や手作り志向なのだと合点する。すなわち車よりも自転車、電話よりも手紙、コンピュータゲームよりも将棋やトランプのほうに美を認めるのだ。エスカレータよりも階段、エアコンよりも窓を開け放した部屋が好きなことはいうまでもない。
なぜこんなことを言い出すのかというと、自転車よりもさらに人間の力の原点である〈歩き〉に魅せられる筋道をのべているのだ。ヒトは直立歩行するようになって以来300万年も二本足で歩いてきた。江戸時代でも明治のころでも、交通の基本手段は足だった。それが、ちょっと豆腐を買うのにもビデオを借りに行くのにも車というおかしなことになったのは、ついここ20年ほどのことだ。
わたしたちだって、かつては実によく歩いたものだ。〈歩く〉ことにまつわる記憶を二、三あげてみよう。
子どものころ、腕白少年の遊びのフィールドは半径5〜6キロにおよび、どこに行くのも歩きだった。学校の遠足というのが文字どおりの遠歩きで、疲れを知らなかったあの当時でも、家に帰ってから疲れた足をもてあました記憶がある。
やはり小学校低学年のころの夏休み、三重県の叔母の家で過ごしたときのこと。いとことやさしいおばあちゃんがいる村まで行くには1時間歩かなければならなかった。この距離が1里。子ども心に(1里っていうのは遠いなあ)とは思ったが、苦にはならなかったものだ。
人間、最後に頼れるものは自分の力で、どんなときでも役立ってくれるのは手足である。電気が止まり車も使えないような土壇場を切り抜けるには、知恵も勇気も必要だが、もっと確かなものは体力だ。たとえば阪神・淡路大震災のような事態に遭遇したとき、最小限のことは自力でやれるようでありたい。それが勤務中であったなら、自宅まで4時間も歩けば帰り着く。もしも家にいるときの事故ならば、約7時間で母のいる杉並の家までたどりつける──わたしはそんな原始的な強さにあこがれている。
もちろんこれはお年寄りや身体の弱い人、障害のある人にはあてはまらない。わたしがいうのは、健康にめぐまれて社会人として現役であるかぎり、本来ある自分のパワーを維持すべきであり、そうすることによって万一のとき家族を守り、他人さまの力にもなれるのではないかということ。のみならず〈歩き〉が、今日における社会・個人両レベルの多くの問題を解消すると考えるのだ。
──対岸の樹影

■歩き人〈江戸川未明〉
わが家は千葉県北西部に位置する流山市にある。ここは江戸時代、首都に物資を運ぶ水運で活況をていし、明治・大正・昭和を通してみりんの町として栄えた。今日では都心に勤めるサラリーマンの町に変わったが、豊かな自然環境とひなびた風情を残している。
家から西へ5分ほど行くと江戸川で、見上げるほど高い堤防がある。土手を昇ると〈海から29㎞〉の標識が立っていて、水はゆったりと流れている。子育て時代にはここでよく遊んだものだ。土手の上には〈歩行者・自転車専用〉の舗装道路が南北にえんえんと伸びている。この幅2メートルほどの細く長いスペースが、歩く日のわたしのメイン・スタジアムであり、全宇宙なのだ。
当初、心もとない第一歩を踏み出したわたしだが、今では古顔となって余裕たっぷりに歩いている。コースも景色もわが庭のようにおなじみなうえ、500メートル毎に標識があるから、時計も持たず星明かりを頼りに歩いても予定通りのウォーキングをできるわけだ。
土手を歩くときは、ぜいたくなくらいに時間がたっぷりある。人混みにもまれたり、仕事のストレスにいらつくことが多い日常とはまさに別世界だ。神経を使うことがないから、ふだんのささくれだったような気持ちが潤っているようにさえ感じる。何かにさえぎられることもなく、心ゆくまで物思いにふけることができる。たとえば、こんなとりとめもないことを考えながら歩いている。
——江戸川というと、わたしの世代が連想するのは『怪人二十面相』の江戸川乱歩だ。乱歩というと酔っぱらいの千鳥足みたいだな。だけどおれは、1分間に122歩、時速6キロで機械のように正確に歩いている。乱歩はどうも似合わない。待てよ、スポーツ紙には激走や爆走という言葉があるから激歩・爆歩はどうか。……それにしてもこの暗さ。朝というよりもまだ夜だ。かはたれどき、ともいえない。うん、これを未明というんだ。そうだ。『赤いろうそくと人魚』の小川未明だ。よし、おれのウォーキング・ネームは「江戸川未明」にしよう。
せっせと手足を動かす一方でこんなふうに頭をフリーにして歩くと、落ち込んでいた気分に力が吹き込まれて、かえって帰路のほうが元気になったような気がする。
もともと、ぜい肉を落としてすっきりボディになりたいとの一心で始めたウォーキングだが、こんなわけでパワーアップの新目標を得たうえに、内省的な時間を拡大することになった。それは望外のピュアでハッピーな時間で、〈公〉でも〈私〉でもない〈個〉の時間だった。この豊かなひとときに見たこと考えたことが多様多彩なうえ、あまりにとりとめなく断片的なので、以下では学校の授業になぞらえてテーマ毎に便宜的なくくり方をしてみた。
──江戸川未明

江戸川の、土手を歩いて10年になる。それはわたしの長いサラリーマン人生の、終盤の歳月であった。そしてまた後になって気づくことだが、このウォーキングは心身両面からの〈自己改造〉の始まりでもあった。
週に1回、同じコースの往復12キロメートルを2時間で、雨でもないかぎり夏でも冬でも欠かさず歩く。今ではそれが生活のリズムとなり、わたしの人生に小さくはない意義を持つ日課となっている。
〈使用前〉〈使用後〉的にわがことを考察すれば、はっきりとわかるのは身体的な変化だ。当初、歩いて帰った後はスポーツマンというよりも敗残兵のようなざまで、数日はへたばっていた。それが今では、文字どおり朝飯前の準備運動ていどの気軽さでこなす。脚部の筋肉が自分の足とは思えないほど発達して、減量効果もみえる。体脂肪率が顕著に下がったから、内臓など諸機能の改善もかなりのものだろう。要するに体力に自信がついたことが大きい。
運動の効用というか副産物というべきか、精神的な収穫の多大さは予想外のものであった。土手を歩いているとき、幸せな充実感の中に自分を取り戻した気分になっている。見過ごしていた自然や景色にふれ、来し方行く末をあれこれと考える。(こうしてせっせと歩いていれば、もしかしたら当面の悩みや将来の不安を解決する答えが見つかるかしれない……のみならず、人生の真理、地に足がついた生き方をつかめるかもしれない……)おおげさだが、そんな思いさえある。
禁煙を誓っても英会話に奮起してもいつも三日坊主なのに、ウォーキングだけは挫折の危機もなくわがものになっている。それだけ確かな手(足)応えがあるということだ。今回ばかりは明快な目標を持ち、準備期間をへて始めたことだから、楽しみながらモノにできたのだと思う。
その目標とは「タフで引き締まったボディになりたい」である。正確にいえば「かっこよくなりたい」よりも「見苦しくなりたくない」一心だった。幸いにわたしは健康であり、年齢のわりには体力もある。だから歩くことに期待したのは、長生きをしようという健康法や速歩の達人になることではなく、体重をしぼって強靭な肉体を取り戻すことだった。
40代の後半に、わたしはまぎれもなく〈中年太り〉の仲間入りをしつつあった。〈標準体重〉を大きく上回り、いつも身体の重さや胴回りのきれの悪さを自覚していた。ある日、ふろ上がりの赤らんだ腹に浮かんだ、横二筋の白い線がショックだった。以来、ゆるんで肥ったわが姿を容認できないでいた。
そのころ、自分には無縁と思っていた腰痛にみまわれて運動不足を痛感、たまたま勤務先の近くにオープンしたフィットネスクラブのチラシを見て、そのメンバーとなった。
年齢的にも仕事の面でも転機にさしかかっているのは明らかで、わたしは何かを変えたい思いで黙々とクラブに通った。学生時代の懶惰な暮らしにつづくサラリーマン生活──じつに40年がかりで脆弱にしてしまった肉体を、親からいただいたままの頑健な身体に戻そうという自己改革が始まった。
やがて肩や胸に筋肉がついて、四肢の力が着実にアップしていった。いつの間にか腰痛もあちらから敬遠したようだった。ところが、とんだ思惑違いがあった。体重のほうは減るどころか、むしろ増えていく!
クラブのコンピュータはこういう事態をお見通しで、しばしば「筋肉は脂肪よりも重いのです」などと気休めのメッセージをよこす。それもそうかと思い直してマシン相手に筋力トレーニングをつづけるうちに、上半身が発達して手持ちの背広やワイシャツが着られなくなった。そのころになって、ようやく「減量には体脂肪を燃やす持続的な有酸素運動が必要」だと知る。
そこでトレーニング・メニューを変更して、目標をつぎのように立て直した。
⑴せっかくやってきたのだから、ベンチプレスで100㎏を挙げる
⑵歩行マシンとペダル踏みを導入して、いずれロードを歩けるように下半身を鍛える
──北へ

■お父さんの〈身体改造計画〉
五十肩の痛みに苦しんで、⑴の達成までにはそれから数年を要した。そのぶん、⑵への備えはじっくりできたわけで、歩行マシン上で自分の脚力を正確に把握した。時速6〜6.5キロで一時間を歩ける自信がついたのがこの段階だった。
頃やよし。わたしはクラブという温室を出て、本格的にロードコースを歩くことにした。そのコースは、あらかじめ決まっていた。それは自宅近くを流れる江戸川の土手で、わたしは勝手知ったるこの道をイメージしながら歩行マシン上を歩いていたのだった。
土手のコースを定期的に歩くようになって間もないころ、印象的な二つのできごとがあった。
一つはオリンピックにおける有森裕子さんのがんばり。さわやかな激走が、ぬるま湯に浸かりきったような日本人に感動を与え、わたしは身体能力を鍛えることに〈開眼〉したような気がした。
もう一つは「フーテンの寅さん」で親しまれた渥美清さんの死。わたしはファンというほどではないが、映画に必ず出てくる江戸川土手の光景が好きだった。一人で土手の道を闊歩するとき、しばしば〈寅さん気分〉になったものだ。
わたしは、ウォーキングの実力を〈初段〉くらいだと自覚している。というのは、本式のスポーツマンにはとても及ばないが、一般人よりは明らかに上といえるレベルだ。そして具体的な目標を「42㎞を7時間で歩く」こと、つまり時速6キロを7時間持続できるようになることに置き、それができたら〈二段〉だと考えた。そこであらためてつぎのような三つの目標を掲げた。すなわち60歳の定年時に──
⑴42㎞を7時間で歩く
⑵体重を70㎏におとす
⑶ベンチプレス100㎏を維持する
以上がわたしの身体改造計画であり、ウォーキングとの出会いである。目標数値などを掲げると体力増強に目の色を変えた中年男の悪あがきに見られそうだが、けっしてそんなことはない。長時間の運動を何年にもわたって持続していくためには、心理学の法則からいっても具体的な目標が必要なのだ。
そして実際に歩くようになって発見・実感したのは、楽しさにまさる動機づけはないということ。ときには身体がきつくてもおっくうでも、歩くことが楽しくていい気分だからつづけられること。
こうして当初は身体面の変革を意図して歩き始めたのが、副産物と呼ぶには惜しいくらいの精神面の収穫を得ることになった。そのことについてはおいおい述べることにして、まずは初めてロードに出る前の準備のようすをご紹介したい。
──常磐道の灯

■〈若葉マーク〉ロードへ
自慢じゃないが、わたしのスポーツ・ルックは中古品の寄せ集めである。若者とちがってかっこよく見せたい気持ちはさらさらないし、スポーツにお金をかけるなどはぜいたくと思う気分がある。だからクラブでもロードでも、Tシャツ、ウェアからシューズまですべて息子たちのお古で間に合わせてきた。(じつは真新しいものを身につけてコースに出るのが〈若葉マーク〉の証明みたいで、気恥ずかしい思いもあった)
さて、初めてのロードは盛夏8月、暑さがややおさまった夕方のことだった。江戸川の土手沿いに伸びる〈自転車・歩行者専用〉コースが、室内でトレーニングを積んだわたしの登場を待っていた。
なにしろ若葉マークだから、遠慮がちに歩き始めたものだ。すれ違う人に会釈をしたり、挨拶をされてあわてて返したり、まあ、ういういしい歩き初めであった。それでも気が張っていたから、確かな足どりで歩いて、暗くなるころ無事に初日を終えた。
この日だけの経験から、服装をすべて白ずくめにすることにした。夕闇が迫っても目立ちやすいという、他人との衝突・追突を防ぐ配慮からだ。実際、時間の都合と強い陽射しをさけるために早朝未明にスタートしたり、午後からの歩きの場合、帰り着くころは夕暮れというケースが多い。それでも白い服装なら、安全性が高いだけでなく他人様をぎょっとさせるようなこともない。このいでたちは「わたしは決して怪しいものじゃありませんよ」という意思表示でもあるのだ。げんにこの10年間に、土手で若者たちのけんかによる殺人事件がひとつ、川で発見された水死者が三つあった。ロードは決して安全とばかりもいえないのだ。
もうひとつ、シューズに対する認識をあらためた。というのは、2時間ほど歩いただけで無残な足先になってしまったからだ。足の裏が広い範囲にわたって水ぶくれ状になり、厚い皮が遊離してその痛いこと、ようやくに帰り着いたことも再三だった。
よく、靴ははきなれた古いのにかぎるという。しかし、室内でペダル踏みをしたり回転するベルトの上を歩くのと違って、ロードはそんなにやさしくない。コースには舗装面だけでなく、砂利敷きや雑草のでこぼこ道もあるから、かなりタフな靴底でないと継続的な衝撃から足を保護しきれないのだ。考えてみればシューズは歩き屋さんにとって最大唯一の武器なのだから、よいシューズをはけば足の保護だけでなく、よい歩きができるのは当然である。以来、シューズにだけは神経を使って新調することした。
初めてロードに出るに当たっては、携帯品入れとして長女が使っていた小さなナップザックを用意した。それにマジックペンで名前と電話番号を書いて、さまざまな小物といっしょに小銭とテレフォンカードを入れた。次女が「行き倒れになったとき知らせてもらえるね」と笑ったが、まあそんなところだ。実際、長時間のウォーキングではどんなアクシデントがあるかわからない。それに、人けのない土手で身体に変調をきたしたらどうなるか……〈若葉マーク〉だけに、ちょいと慎重になっていたのだった。
──自転車・歩行者専用

■リュックの中身
そのナップザックがこわれた後、二代目となった白いリュックサックにも同じように名前を書き、小銭とテレフォンカードを入れた。
キャリアを積み、距離が伸び、四季を経験するにつれて、背中のリュックの中身もふえた。といっても、いずれも少量・小型なので負担になるほどの重さではない。その内容、小間物屋ぶりをご披露すると——。
・ラジオ……早朝に歩くことが多いので、7時のニュースを中心に天気予報・各地の話 題などでその日の雑情報を仕入れる。NHK「音に会いたい」「新聞を読んで」はよ く聞く。野茂投手が登板する大リーグの試合は、時間に合わせて歩き出して必ず聞い た。
・タオルハンカチ……用意のために持っているだけであまり使わない。
・ティッシュ……よく街頭で配っているやつを入れている。
・ばんそうこう……なれると靴ずれは起こさないが、足指の保護に使う。
・缶飲料……ウーロン茶など1缶だけ。非常用のつもりで、なるべく飲まない。
・あめ……エネルギーの補給が必要なとき用、チョコレートのこともある。
・手帳とシャープペン……古い年度のものを、見たこと考えたことのメモ用に。
・地図……利根川との分岐点から海まで、60キロにわたる江戸川流域全図。
・英会話本……放り込んであるだけ。気になるフレーズを調べるていど。
・軍手……手がかじかむ寒い時期は必需、春・秋でもけっこう役立つ。
・フード……雨と耳の防寒用。コートについていた古いのを利用している。
その他、とくに小鳥や遠景を見たいとき、会話テープや音楽を聴くつもりのときだけ、重いのをがまんして双眼鏡やカセットレコーダーを携行することもある。
小物入れはその後、腰周りにつけるベルト型のものに替えた。あまり美的とはいえないものだが、肩にかかる負担と背中の汗を軽減するメリットがある。
帽子はオーストラリア製のつば広カウボーイハットを用意した。長時間日光に当たってグロッキー気味になったことがあるので、雨や強い陽射しが予想されるときだけ着用している。
蛇足ながら、万歩計などという変なモノは身につけない。後述するように必要がないからだが、〈健康マニア〉みたいで格好悪いから、という気持が強い。
以上のごとき完全装備でいざ出発、という前に大切なことが二つある。トイレをすませることとコップに半分ほどの水分をとること──これで完ぺきだ。
──今日も北へ

■〈歩き〉はヒトの原点
主義というほど大げさではないが、わたしには〈人力〉を偏重する反面で道具や機械をきらう傾向がある。
たとえば自動車ぎらいで、携帯電話などは軽蔑している。パソコンは使うが、これを使うお遊びは毛嫌いしている。食べ物でいえばいも・豆など素材に近いものを好み、加工食品やファストフードはだめ。スポーツならシンプルに速さと力をぶつけ合う陸上や格闘技こそ一流で、道具を用いたり技術の要素が大きくなる球技などは三流と決めつけている。
この偏見・偏屈ぶりを自己分析すると、科学や文明よりも自然や手作り志向なのだと合点する。すなわち車よりも自転車、電話よりも手紙、コンピュータゲームよりも将棋やトランプのほうに美を認めるのだ。エスカレータよりも階段、エアコンよりも窓を開け放した部屋が好きなことはいうまでもない。
なぜこんなことを言い出すのかというと、自転車よりもさらに人間の力の原点である〈歩き〉に魅せられる筋道をのべているのだ。ヒトは直立歩行するようになって以来300万年も二本足で歩いてきた。江戸時代でも明治のころでも、交通の基本手段は足だった。それが、ちょっと豆腐を買うのにもビデオを借りに行くのにも車というおかしなことになったのは、ついここ20年ほどのことだ。
わたしたちだって、かつては実によく歩いたものだ。〈歩く〉ことにまつわる記憶を二、三あげてみよう。
子どものころ、腕白少年の遊びのフィールドは半径5〜6キロにおよび、どこに行くのも歩きだった。学校の遠足というのが文字どおりの遠歩きで、疲れを知らなかったあの当時でも、家に帰ってから疲れた足をもてあました記憶がある。
やはり小学校低学年のころの夏休み、三重県の叔母の家で過ごしたときのこと。いとことやさしいおばあちゃんがいる村まで行くには1時間歩かなければならなかった。この距離が1里。子ども心に(1里っていうのは遠いなあ)とは思ったが、苦にはならなかったものだ。
人間、最後に頼れるものは自分の力で、どんなときでも役立ってくれるのは手足である。電気が止まり車も使えないような土壇場を切り抜けるには、知恵も勇気も必要だが、もっと確かなものは体力だ。たとえば阪神・淡路大震災のような事態に遭遇したとき、最小限のことは自力でやれるようでありたい。それが勤務中であったなら、自宅まで4時間も歩けば帰り着く。もしも家にいるときの事故ならば、約7時間で母のいる杉並の家までたどりつける──わたしはそんな原始的な強さにあこがれている。
もちろんこれはお年寄りや身体の弱い人、障害のある人にはあてはまらない。わたしがいうのは、健康にめぐまれて社会人として現役であるかぎり、本来ある自分のパワーを維持すべきであり、そうすることによって万一のとき家族を守り、他人さまの力にもなれるのではないかということ。のみならず〈歩き〉が、今日における社会・個人両レベルの多くの問題を解消すると考えるのだ。
──対岸の樹影

■歩き人〈江戸川未明〉
わが家は千葉県北西部に位置する流山市にある。ここは江戸時代、首都に物資を運ぶ水運で活況をていし、明治・大正・昭和を通してみりんの町として栄えた。今日では都心に勤めるサラリーマンの町に変わったが、豊かな自然環境とひなびた風情を残している。
家から西へ5分ほど行くと江戸川で、見上げるほど高い堤防がある。土手を昇ると〈海から29㎞〉の標識が立っていて、水はゆったりと流れている。子育て時代にはここでよく遊んだものだ。土手の上には〈歩行者・自転車専用〉の舗装道路が南北にえんえんと伸びている。この幅2メートルほどの細く長いスペースが、歩く日のわたしのメイン・スタジアムであり、全宇宙なのだ。
当初、心もとない第一歩を踏み出したわたしだが、今では古顔となって余裕たっぷりに歩いている。コースも景色もわが庭のようにおなじみなうえ、500メートル毎に標識があるから、時計も持たず星明かりを頼りに歩いても予定通りのウォーキングをできるわけだ。
土手を歩くときは、ぜいたくなくらいに時間がたっぷりある。人混みにもまれたり、仕事のストレスにいらつくことが多い日常とはまさに別世界だ。神経を使うことがないから、ふだんのささくれだったような気持ちが潤っているようにさえ感じる。何かにさえぎられることもなく、心ゆくまで物思いにふけることができる。たとえば、こんなとりとめもないことを考えながら歩いている。
——江戸川というと、わたしの世代が連想するのは『怪人二十面相』の江戸川乱歩だ。乱歩というと酔っぱらいの千鳥足みたいだな。だけどおれは、1分間に122歩、時速6キロで機械のように正確に歩いている。乱歩はどうも似合わない。待てよ、スポーツ紙には激走や爆走という言葉があるから激歩・爆歩はどうか。……それにしてもこの暗さ。朝というよりもまだ夜だ。かはたれどき、ともいえない。うん、これを未明というんだ。そうだ。『赤いろうそくと人魚』の小川未明だ。よし、おれのウォーキング・ネームは「江戸川未明」にしよう。
せっせと手足を動かす一方でこんなふうに頭をフリーにして歩くと、落ち込んでいた気分に力が吹き込まれて、かえって帰路のほうが元気になったような気がする。
もともと、ぜい肉を落としてすっきりボディになりたいとの一心で始めたウォーキングだが、こんなわけでパワーアップの新目標を得たうえに、内省的な時間を拡大することになった。それは望外のピュアでハッピーな時間で、〈公〉でも〈私〉でもない〈個〉の時間だった。この豊かなひとときに見たこと考えたことが多様多彩なうえ、あまりにとりとめなく断片的なので、以下では学校の授業になぞらえてテーマ毎に便宜的なくくり方をしてみた。
──江戸川未明

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by knaito57
| 2005-03-17 10:56
| 1 ウォーミングアッ
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